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──『精神障害とキリスト者』を作ろうと思ったきっかけは?
石丸:統合失調症やうつ病を抱える人がよく教会にやって来ますし、信徒が病気にかかることも少なくありません。牧師のメンタルヘルスの問題もあります。そういう状況の中で、「健康な人が病気の人を支える」というわけにはいかなくて、「信徒も牧師もお医者さんもみんなが問題をシェアしていかなければならない」という気持ちがあったところに、編集の市川さんからお話しがあり、「これは時代にマッチしているな」と思いました。
市川:2年間連載を全うすることができたのは、監修者である石丸先生のおかげです。バックがしっかりしているので、安心して取り組めました。
通常の記事と違って、ここにある記事はかなりの配慮と時間が必要です。たとえば、精神障害のある当事者に執筆を頼む時も、先生とコンタクトをしっかり取りながら進めました。提出原稿も、相手に負担がかからないよう、私がチェックしたものを石丸先生にご確認いただいた上で、先方に手直しをお願いするようにして、修正依頼ができるだけ一度ですむように配慮しました。かなり労力はかかりますが、そういう時間と手間は惜しまずやりました。
──精神障害は薬で抑えることができると聞きます。
石丸:精神科医療の中で薬の役割が誤解されています。統合失調症の幻覚や妄想といった精神症状を抑えるためには薬が必要ですし、有効でもあります。うつ病の場合は休養が重要で、仕事などを休めるよう診断書を出し、抗うつ薬で症状を和(やわ)らげるといった医療的援助が役立ちます。
しかし、その人の人生そのものを支えようとしたら、薬だけでは全然足りないです。うつ病の場合は、生きていく悩みそのものがうつの背景にあることが多いでしょう。そういったことを考えると、薬の役割は限定的だと思っています。
──薬では治しきれないところに、教会の役割が示されるのですね。同書でも、「教会は誰でも受け入れる場所になっているか」と問うています。
石丸:教会が真剣に「神の家族」であろうとしているか、それとも「仲良しクラブ」で満足してしまっているか、そこが気になるのです。教会にはそれぞれ独自の居心地の良さがあり、それを乱されることを嫌う面がありはしないでしょうか。そこに精神障害のある人が来て、たとえば礼拝中に声を出したりすると、居心地の良い空間が撹乱(かくらん)されますから、その人は邪魔な存在に感じられてしまうでしょう。「礼拝中、静かにしてもらえないなら、いてもらうわけにはいかない」と締め出すことも起きるかもしれません。
一見、正しい主張のようですが、大声で叫ぶ盲人バルティマイを呼び寄せたり(マルコ10:49)、弟子たちに「子どもたちをそのままにしておきなさい」(マタイ19:14)とおっしゃったイエス様がそれをどう思われるかです。神様が送ってくださった人を家族として受け入れることができるか、厳しく問われていると思います。
市川:教会に体力があった時代には、精神疾患を抱える信徒の面倒を見る人がいて、何か決め事をしたり、誰かにお願いしたりしなくても、自然に寄り添うことが行われていました。しかし今は教会に人が少なく、高齢者は自分のことで精いっぱいなことが多いでしょう。そういう中において、礼拝で声を出されたり動き回ったりされると、人によっては邪魔をされている気分に陥ってしまいます。牧師はその人だけにかかりっきりになるわけにはいかず、教会全体をまとめなければならないので、苦慮している姿をよく見聞きします。
──日本福音ルーテル東京教会で試験的に始めたという「ステファン・ミニストリー」(使徒言行録に出てくる、初代教会で人々の世話をしたステファノのように人々をケアする信徒を養成する働き)は興味深いですね。
市川:はい、この連載の終盤で取り上げ、昨年連載した信徒牧会者養成ですね。理想は、自然に寄り添えることですが、その人個人の信仰に頼るのではなく、ステファン・ミニストリーのようなスキームの中にでスキルを身につけることは、相互にとって益になるのではないかと思います。
ただ高齢の方から、「こんなものがなければ教会はやっていけないのか。教会はこんなものに頼らなくてはならなくなってしまったのか」という嘆きの声がありました。おそらくこの方は、「もっと一人ひとりの信仰や良心によってそういう人たちに接していくのが教会でありクリスチャンだ」という気持ちなのではないかと思います。この方の気持ちも分かります。
石丸:「あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人探しなさい。彼らにその仕事を任せよう」(使徒6:3)という初代教会の働きがステファン・ミニストリーの原点になっているので、決して聖書から外れたものではありません。ですから、「助けたい」という気持ちを行動に移し、信仰の火を確認していく上でのある種の処方箋と考えれば、ステファン・ミニストリーの訓練を嘆く必要はないのではないでしょうか。(3に続く)