からし種一粒の信仰とは、イエスさまのこと
2016年10月2日 年間第27主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です
ルカ17:5~10
使徒たちがイエスさまに向かって、「わたしどもの信仰を増してください」(ルカ17:5)とお願いするところから今日の福音は始まります。弟子たちがそうお願いしたのには理由があります。
今日の箇所の直前、イエスさまはおっしゃいました。
「もし兄弟が……一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(3~4節)
もし1回でも赦(ゆる)しがたいという思いがある時、「7回」と言われると、気が遠くなってしまうかもしれません。使徒たちも、「う~ん、それは無理だ」と思ったかもしれません。それでイエスさまに「わたしどもの信仰を増してください」とお願いしたのです。
しかしイエスさまは言われます。
「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(6節)
「からし種」というのは小さな種です。つまり、「あなたたちは信仰を増やしてほしいと願っているけれど、信仰は、からし種一粒で十分なのだよ。そのからし種一粒ほどの信仰を持つように」と教えておられるのだと思います。
弟子たちには信仰について、こんなイメージがあったかもしれません。信仰とは、自分がたくさん持たなくてはならないもの、増やさなければならないものというイメージです。しかしイエスさまがおっしゃる信仰とは、自分の力ではなく、神さまに対するただ一筋の信仰、神さまへの信頼でした。
使徒たちは、「もっと忍耐強さを、もっと力強さを、もっと寛容な心を持てるように増やしてください」と思ったかもしれません。しかし、イエスさまが私たちに教え、求めておられる信仰とは、ただただ神さまに対する信頼を第一番にする、その一筋の信頼だと思います。
「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(9~10節)
「命じられたこと」って何でしょうか。「赦し」だと思います。赦しとは、相手の中に神さまがいらっしゃることを認めることです。
「しなければならないこと」とは赦しです。どんなひどい相手であっても、神さまが共にいてくださるという神さまの真実を認めなくてはいけないのです。「それをしなさい」とイエスさまは教えられるのだと思います。
「赦し」ということを考えるとき、私たちは「信仰心を増してください」という思いを持つかもしれません。「どうしてもあの人を赦す気持ちになれない」、「どうしてもあのことを思い出すと赦せない」、「どうしてもあの人を見ると、いじめたくなっちゃう。傷つけたくなっちゃう」。私たちはそんな思いがあって、そういうマイナスの感情をなくしたいと思っているかもしれません。そういうものがなくなるように「信仰心を増してください」と願うかもしれません。
でも、きっとイエスさまは、「そういうものをなくしなさい」とおっしゃらないような気がします。「そういう相手の中に神さまがいらっしゃることを認めなさい。それを第一番にしなさい」。それだけをおっしゃると思います。その第一番を第一番にするならば、「赦す心」とか、そういう思いは、神さまが後から、おまけみたいに必要に応じて付け加えて与えてくださるものだと思います。
「相手を赦す気持ちになったら赦す」では、イエスさまが命じられる「赦し」にはなりませんね。赦す気持ちがなくても、その人に向かって「神さまがあなたと共におられます」と祈って認めること。これが「からし種一粒」の信仰のわざではないかなあと思います。
「赦す気持ち」がなくても、「赦したいという思い」がなくても、「相手に対する嫌な気持ち」が消えなくても、「相手を馬鹿にしたい気持ち」がむずむずしても、「神さまがあなたと共におられます」と祈って、相手の人と共にいてくださる神さまの真実を第一番にすることこそ、「からし種一粒ほどの信仰」を持つということになるのではないでしょうか。
そして、「そのからし種一粒ほどの信仰」とは、イエスさまのことなのだと思います。すべての人の中にインマヌエル(「神が我々と共におられる」という意味)を認めて生きてくださった信仰とは、イエスさまのことです。
今日、私たちがイエスさまを持って、イエスさまと一緒の向きで生きるなら、相手の中に神さまを認めて生きる恵みに入ります。今日もそのただ一つの歩みを歩んでいくことができるように願いながら、ご一緒にこの感謝の祭儀をおささげしたいと思います。