神さまが共におられる神秘(69)稲川圭三

本来いるべきところに戻って

2016年9月11日 年間第24主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください
ルカ15:1~32

今日イエスさまは二つのたとえ話をしておられますが、それはファリサイ派の人々、律法学者たちが「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言ったからです(ルカ15:2)。それでイエスさまは、「あなたたちはそう不平を言うけれど、それは正しいことではないよ」とおっしゃるために、たとえ話をお話しになっています。

ところで私たちは、どんな時に不平を持つのでしょうか。自分が正しいと思っていることが、そのとおりに守られない事態を見ると、不平を言うのではないでしょうか。

たとえば、コンビニで買い物をして、レジに並び、やっと私の番が来たとき、列に並んでいない人がすっと入ってきて会計を始めてしまった。お店の人も構わずに会計をしている。その時、私は、「なんで並んでいないのに入ってくるのか」と、横入りした人に不平を抱きます。それだけでなく、「レジの人もレジの人だ。横入りしているのに、そのまま受け入れてレジを打ち始めるなんて」と思うかもしれません。

このようにファリサイ派、律法学者の人たちが不平を言ったのは、「罪人や徴税人は一緒の食事の席に着く資格がない」と思っていたからです。

当時の考え方では、「律法を守る人が神を愛している人」で、「守らない人は神を愛していない人」、また、「律法を守る人は神に愛され」、「守らない人は神に愛されない人」と考えました。だから、律法を守らない人が一緒に食事の席に着くことは正しくないと考えたのです。

ところで、当時の人々の食事に対する考えは、今の私たちと少し違っていました。食事とは、愛する神さまの前で一つになることでした。だからユダヤ人は、神を知らない異邦人とは決して食事をしませんし、律法を守らない人とも決して食事をしませんでした。

それなのにイエスさまは、律法を守らない罪人を迎えて食事までしている。「そんなのは正しくない」と不平を言ったのです。

それを見てイエスさまは、「あなたがたの神さまに対する理解は根本的に違うよ」とおっしゃっています。そして、「神さまのお心」を分からせるために、たとえを話されたのです。

「あなたたちの中に100匹の羊を持っている人がいて、1匹を見失ったら、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないか。捜すだろう? 見つけたら喜ぶだろう? そして、周りの人にも喜んでくれと言うだろう」

「あなたたちの中に幼稚園の先生がいて、100人の園児を連れて遠足に行って、一人いなくなったとしたら、『あなたたちはこの部屋にいて』と言って、いなくなった一人を見つけ出すまで捜し回らないか。捜すだろう? そして、見つけたら大喜びで帰って、みんなに『喜んでください』と言うだろう」

こういうふうに神さまは、いなくなった一人を見つけ、見つけ出したら、その一人を喜ぶお方なのです。これが、今日イエスさまが言おうとしておられることです。

今日の箇所の中で、「見失う」という言葉が3回、「なくす」という言葉が2回出てきました。今日の福音のキーワードです。それらは原文のギリシア語では、全部同じ単語が使われています。「アポッリューミ」という単語が、繰り返し5回使われているのです。

その根源的な意味は、「そのものが本来あるべきところから離れて弱ってしまう、滅びてしまう」という意味を持つ単語です。神さまは、「本来あるべきところから離れて滅んでしまう者を連れ戻して、そのことを喜ばれる方なのだ」とイエスさまはおっしゃっているのです。

徴税人や罪人は、自分の悪さや欠点、ダメさ加減よりも、いのちの主であるお方のところに行ったのです。それを神さまは喜ばれます。

ところで、ファリサイ派の人々は、「本来いるべきところ」にいたのでしょうか。きっと「いなかった」のではないかな。

「本来いるべきところ」というのは、神さまのところです。そして、その神さまとは、「自分にも人にも、ただ共にいてくださるお方」です。ですから、そういう神さまを認めることが、私たちが「本来いるべきところ」なのです。

ファリサイ派の人は、「自分は掟を守っている」という「自分」にいて、それゆえ、掟を守らない人たちの中に神さまが一緒にいてくださるということを認めることができなかったようです。そこは私たちが「本来いるべきところ」ではありません。

今日、私たちが「本来いるべきところ」に戻るように神さまはお望みになります。私たちが「本来いるべきところ」とは、「自分のうちにも、人のうちにも、主である神さまが共におられます」とただただ認めるところです。そこにいて一緒に喜ぶようにと招かれています。その恵みを願って、ご一緒にお祈りしたいと思います。

稲川 圭三

稲川 圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう) 1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員をする。97年、カトリック司祭に叙階。西千葉教会助任、青梅・あきる野教会主任兼任、八王子教会主任を経て、現在、麻布教会主任司祭。著書に『神さまからの贈りもの』『神様のみこころ』『365日全部が神さまの日』『イエスさまといつもいっしょ』『神父さまおしえて』(サンパウロ)『神さまが共にいてくださる神秘』『神さまのまなざしを生きる』『ただひとつの中心は神さま』(雑賀編集工房)。

この記事もおすすめ