また、二人称の人称代名詞について、「新共同訳」では「お前」という言い方が頻出し、それなりに批判を受けていました。新翻訳では、少なくとも、神がその言葉を使うことはないよう申し合わせました。常に相手に敬意をもって向かい合う方と性格づけるということです。

例外となるのは、創世記3章ぐらいです。ここは蛇を詰問、叱責する場面です。このようなシーンでは、怒りを表すために許容される言い回しだと考えます。

対照的に、出エジプト記のファラオは、1章の助産婦や5章のモーセとアロンに向かって「お前」と言います。その他、サムエル記上17章のゴリアト、24章のダビデに語るサウル、列王記下18章のラブ・シャケ、ダニエル書2章以下のネブカドネツァルなど、少しバイアスがかかっているきらいもありますが、あまり好意的に扱われていない人物の口からは発せられています。

他方、主要な登場者は口にしません。詩編においても、「新共同訳」では31箇所で「お前」が使われましたが、今回は、欺きの魂や敵対者に語る場面に限り数箇所(116:7、120:3、137:8-9)にとどまります。

よく知られている詩編137編8-9節を例にあげます。

娘バビロンよ、破壊者よ
いかに幸いなことか
お前がわたしたちにした仕打ちを
お前に仕返す者
お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。(新共同訳)

ここに「あなた」を用いては、作者の感情をストレートに響かせようがありません。直前の5-6節では、エルサレムへの憧憬(しょうけい)の思いを同じ二人称単数で述べています。

エルサレムよ
もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい。
わたしの舌は上顎にはり付くがよい
もしも、あなたを思わぬときがあるなら
もしも、エルサレムを
わたしの最大の喜びとしないなら。(新共同訳)

原語は同じですが、ここは「あなた」と訳されています。このようなコントラストは、日本語への翻訳には当然必要であると考えます。

(3)説明的すぎる語の解消

その他、「新共同訳」で「説明的すぎる」と批判的な評価を受けた敵対者の語彙(ごい)、「(神に)逆らう者」「(神に)従う者」「恵みの御業」「(神の)慈しみに生きる者」についても触れておきます。これらは「口語訳」ではたいていの場合、それぞれ「悪しき者」「正しい者」「義/正義」「聖徒」と訳され、文脈によるズレもほとんどありませんでした。今回は「口語訳」に近い訳となる予定です。

上に挙げた語は、「動的等価訳」の名残なのだと思います。「逆らう者」の原語は「ラーシャ」です。これは「悪」に関わる語で、「逆らう」の意味を排除するものではありませんが、「神に」まで入ると訳しすぎという気がします。

この語は詩編では、信仰者を装いつつも心の底では神に背を向けていると作者が判断した人たちを指します。とはいえ、この人々は形式的には祭儀を守り、律法を遵守(じゅんしゅ)していたようですので、「逆らう」という訳語がそのまま当てはまるとは思えません。

「主の慈しみに生きる者」も、原語は「ハシード」で、これは「慈しみ」を意味する「ヘセド」の派生語です。基幹となる「慈しみ」が入っている点は評価されてよいですが、「生きる」は読み込みです。

この訳語をめぐる「新共同訳」の大きな問題は、単複の混在でした。「主の慈しみに生きる『者』」「‥‥『人』」「‥‥『人々』」が原語の単複とは無関係に無秩序に記されているとの印象を受けます。それは同一作品内(詩132:9、16)にも、また隣接作品間(30:5、31:24)にも見られました。

「単複の区別は元来の日本語に存在しない」と反論もあるかもしれませんが、少なくとも現代に別の文化領域の文献を翻訳するというならば、この問題を避けて通ることはできません。新翻訳では「忠実な人」という訳語が考えられています。(続く

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雑賀 信行

雑賀 信行

カトリック八王子教会(東京都八王子市)会員。日本同盟基督教団・西大寺キリスト教会(岡山市)で受洗。1965年、兵庫県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。90年代、いのちのことば社で「いのちのことば」「百万人の福音」の編集責任者を務め、新教出版社を経て、雜賀編集工房として独立。

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