聖書事業懇談会が4月10日、大阪クリスチャンセンター(大阪市中央区)のOCCホールで開かれた。そこで、12月刊行予定の「聖書協会共同訳」についての講演を、翻訳者・編集委員である飯謙(いい・けん)氏(神戸女学院大学総合文化学科教授)が行った。その内容を連載でお届けする。
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1 聖書翻訳の歴史
(1)概観
最初に、聖書翻訳の歴史をたどり、日本聖書協会の新翻訳事業の位置や特徴について述べたいと思います。
研究史を振り返ると、総論として、聖書の翻訳は長く「直訳」「逐語訳」でなされてきましたが、20世紀の半ばに「意訳」が台頭してきました。しかし近年は、直訳方式の欠落点を脚注で補う方式が一般化しているといえます。今回の翻訳も、その方式の一つと位置づけられます。
ルター以降の翻訳を瞥見(べっけん)しましょう。2017年は近代聖書翻訳の出発点となったマルティン・ルターの記念の年であり、改めて彼の仕事が脚光を浴びました。聖書を日常語で読むよう働きかけたことは、信仰の歴史においてはもちろん、文化史的にも疑いなく彼の最重要業績の一つに数えられるでしょう。
彼の翻訳手法は、後代、「形式的対応」(formal correspondence)と呼ばれるようになるスタイルでした。原語(ヘブライ語、ギリシア語)の同一の単語に同一の訳語をあてることを基本とする方式で、七十人訳を含め、聖書翻訳の歴史において、20世紀半ばに至るまで主流であったといえます。「口語訳」に親しんだ世代にはなじみ深い翻訳法です。簡単に言えば、「直訳」ということです。
いま「20世紀半ば」と申しましたが、具体的には英語圏の the Revised Standard Version(RSV)や「口語訳」がそれにあたります。これらは「形式的対応」でありつつ、できる限りその時代の言葉に近い表現を心がけた、この方式による翻訳の最高峰と評することができます。
(2)直訳の限界
他方、1960年代から新たな立場が台頭してきます。従来の「直訳」方式と対照させるならば、「意訳」と性格づけられます。
私どもは、聖書が執筆された時代から2000年も2500年も隔たった社会に暮らしているのですから、当然に文化の翻訳も必要となります。言語文化論とも呼ばれ、多くの人が考え方を整理させられました。そうして、直訳が必ずしも適切とはいえないとの認識に至ります。
たとえば挨拶の言葉でも、「平和」を意味するシャロームと、その日の天候に気を配る「こんにちは」を、社会的な緊張感から見て、同列に扱うことに何の問題も覚えないとすれば、鈍感と言われてしまうかもしれません。
よく引き合いに出される例がマルコ9章49節です。この箇所は口語訳で、「人はすべて火で塩づけられねばならない」と訳されています。「塩づけられる」と訳された語は、「塩」という名詞(ハーラス)を直説法受動態(ハリステーセタイ)にしたものです。
この用例はほかに、「あなたがたは地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか」(マタイ5:13)だけです。ここでは、「味を取りもどす」と訳しています(新翻訳「塩味が付けられよう」)。
マタイのほうはともかく、マルコの「火で塩づける」、あるいは「火で塩味を付ける」は、日本語ではあり得ない表現です。「火」に対応する動詞は、単純に考えれば「焼く」とか「燃やす」です。しかし、直訳だと、こうとしか訳せません。
英訳も、Everyone will be salted with fire(KJV 1611, RSV 1952,NRSV 1989, English Standard Version, 2007 など)と、そのままギリシア語を英語に置き換えています。「形式的対応」の典型的な翻訳スタイルといえます。
塩には、「味付け」「防腐」、そして「浄め」の役割がありました。このテクストは、神の裁きの象徴である「火」をもって「浄める」あるいは「処罰する」といった意味合いなのでしょうが、直訳では「火で塩づけする」となってしまう。
そこで、極端な意訳を心がける「リビングバイブル」(日本語版、1978年、2011年)は、「すべてのものは、火のような試練によって塩けをつけられるのです」としている。これは「敷衍(ふえん)訳」と呼ぶべきカテゴリーで、聖書をもとにした読み物と考えたほうがよいものです。少々乱暴に感想を述べれば、元来、正確な翻訳を目指したものではありません。文化の翻訳を試みたという点では評価されるべきでしょうが、「火のような試練」は、原意を損なっていると言わねばなりません。
その他、マタイ5章3節の有名な「心の貧しい人は幸いである」という箇所を考えたいと思います。New English Bible(新約1961年、旧約70年)は、How blest are those who know that they are poor(自分が貧しいと知っている人たちは、何と祝されていることか)、先ほどの「リビングバイブル」は、「心の貧しさを知る謙遜な人は幸いです」と訳しています。この「貧しさ」は、「へりくだり」ということばかりではないと思います。(続く)