多様な性のありように見る固定化と本質化を問う
〈評者〉絹川久子
最近耳にするようになったクィア神学という言葉。
クィアって? クィアと神学は結びつくの? などの問いも浮かぶ。著者工藤万里江さんは、さらにクィアとフェミニズムの交差する場にも挑戦しながら、私たちの問いに答えようとする。出版物で辿ることのできる三人の女性神学者の「クィア神学」を紹介、分析した上で、クィア神学そのものの多様な内実を明らかにするユニークで極めて明晰な著作だ。
三人が展開するクィア神学に見える相違点と共通点を探りつつ、著者自身が考えるクィア神学の課題と可能性について論を進めていく。実は扱っている内容は混み入っているし、互いにかなり違う三人なので、理解するのも容易ではないかと思いきや著者の文章は極めて明快で、よくもここまでこなせるものだと感心するほどだ。楽しく読めるので、心からお勧めする。
解放の神学やフェミニスト神学が登場したときもそうだったように、クィア神学そのものはいまだその内容を定義してしまえるほどではない。差別語としての出自を持ち、抵抗の言葉としてアクティビズトたちが活用してきた「クィア」は、異性愛規範に抵抗、批判、転覆する意図を持つ理論として発展してきた。クィア神学は「絶えず自身の枠組みを無効化していくような働き」を持つと著者も言う。だとすれば、読者の興味はますますかき立てられる。どのような営みが展開されるのだろうか。
紹介される三人の女性クィア神学者とは、フェミニスト・レズビアンを名乗るカーター・ヘイワード、真のキリスト者だけがアイデンティティ・カテゴリーとして有効だと主張するエリザベス・スチュアート、フェミニスト解放の神学から出発したが自らを変革していくマルセラ・アルトハウスリードだ。それぞれ、アメリカ合衆国、イギリス、アルゼンチンと政治的社会的背景や神学的立ち位置は異なり、活動の時期も少しずつずれながらも、クィア神学の生成期を担った女性たちだ。
著者は2~4章に渡って、それぞれのクィア神学への貢献を記述しつつ、彼女たちの間に見られる共通点および相違点を浮き彫りにする。クィア神学がいかに多様であり、定型化が不可能であるかを自然に理解させてくれる。にもかかわらず、そこに内在する課題と今後への可能性を探ることが著者の取り組んだ目的でもあった。
神学の異性愛主義や性をめぐる本質主義に抵抗することを基盤に、三様の展開を見せるユニークな表現にまずは驚きを隠せないかもしれない。ヘイワードはエロティック概念を神と結びつけ、キリストとの正しい関係に身体性を導入する。スチュアートは性的アイデンティティの脱構築化を求めてゲイ神学・レズビアン神学とは異なる視座を追求し、キリスト教は本来クィアだったとの結論に至る。アルトハウスリードは、『下品な神学』を出版し、セクシュアリティの視座に注目しつつ、下品・不適切だと考えられてきた人々それぞれの出来事や経験からこそ神学することの意味を見いだしていく。
著者自身、性的アイデンティティ・カテゴリーの重要性を説きつつ、カテゴリー自体の有効性を根源から問い、その固定化・同質化に抗う視座を常に伴っている必要があるとの立場を取り、アルトハウスリードの姿勢にもっとも大きな可能性を見ている。次への発展的展開が楽しみだ。