『チ。』というマンガを、最近、ある牧師さんから借りて読みました。地動説と天動説の話で、15世紀のP国という国で、天動説がC教(キリスト教のことです)という国教の公式の教えとなっており、それに反対する(地動説を説く)者は容赦なく殺されていくという話です。「自分が間違っている可能性も含めて考慮するのが本当の学問ではないか」という趣旨のせりふがあります。天動説を信じていたある学者が、それを証明するために、生涯をかけて膨大な観測データを取り、その結果、晩年にどうやら地動説のほうが正しいのかもしれない、という含みを残して世を去る場面もありました。これこそまさに「自分で自分に裏切られる」典型的なパターンであり、本来の学問とはこうあるべきだと、現代の私たちから見たら思えるわけです。しかし、いまだに世の中はそうなっておらず、相変わらず「結論ありき」の議論がまかり通っています。このマンガがヒットしている背景には、そういった21世紀の日本での理不尽な空気も反映しているのかもしれません。
もちろんマンガですから、単純な「あれかこれか」で描かれています。当時から「惑星の軌道は楕円である」などという議論があったのかさえ、私にはわかりません。しかし、C教のような「イエスはキリスト(救い主)です」という「結論ありき」で、あとから理論武装のために理屈をくっつけていくのが「神学」だとしたら、もはやそれは学問とは言えないわけです。そして、私はその21世紀日本におけるキリスト教の信者であり、たしかに宗教にはその側面があることは否定できません。私自身はあまり経験していませんが、「とにかく聖書は正しい」と聞かされ、それを補強する議論や「説教」ばかり聞かされ、「なんか信用ならないな」と思いながら何十年も信者を続けてきている人もいることはよく知っています。
それはやはり「聖書は正しい」という「結論ありき」だからです。もちろん宗教は学問とは違い、「根拠もなく信じる」ことこそが、宗教の骨頂だと思います。だからこそ私の座右の銘は「見ないで信じる者は幸いである」(新約聖書 ヨハネによる福音書20章29節)であるわけです。しかし学問というのは、徹底的に「見なければ信じない」世界です。すべての主張には根拠があるのです。「聖書は絶対に正しい」という立場を覆す、いわゆる「リベラル」と呼ばれる人たちの間にも、実は「結論ありき」の論法がまかり通っていることも私は知っています。
では、21世紀の日本における「C教」とは何であろうか。これは、以下のマンガの存在を知って、少し見えた気がしました。
FRIDAYデジタルに紀野さんのインタビュー記事掲載!作品にこめられた思いを丁寧に聞いて書いてくれています。ぜひ!#成長教https://t.co/TwqiPFAgn1
— 「夫は成長教に入信している」公式@単行本発売中! (@seichokyo) December 9, 2021
『夫は成長教に入信している』というマンガです。以前書いた「宗教に見えないカルト的『信仰』」の集大成が、この「成長教」です。
宗教に見えないカルト的「信仰」 【発達障害クリスチャンのつぶやき】
古い例を出せば「成長戦略」なんていう言葉がはやった時代もありました。もっと古い例を出しますと「変わらなきゃも変わらなきゃ」というコマーシャルもありました。みんな、変わらないと、と思っているのです。成長しなきゃ、と思っているのです。人が「変わりたい」と思っていることを巧みに見抜いてコマーシャルを作っている。それはまさにカルト宗教です。「成長」が悪いわけではありません。それは、旧約聖書の「律法」が悪いのではなく、「律法主義」が問題であるのと似ているかもしれません。そして、C教(キリスト教)が「聖書の律法主義」におちいっているとしたら本末転倒なように、「成長」もそれそのものが目的化したらカルト宗教になるのです。
この「成長教」をも含む概念は、最近、ある教会で洗礼を受けた男子中学生が言っていた「自分教」という言葉に集約される気がします。彼は洗礼を受ける(=キリスト教の信者になる)にあたって信仰告白をしました。そして「自分教」というものに言及し、「ぼくも弟や妹とけんかをするときは『自分教』になっている」と言いました。彼は決して「『自分教』はいけません」と言ったのではなく、まして「『自分教』を卒業したからキリスト教の洗礼を受けます」とも、「キリスト教の洗礼を受けたら『自分教』を卒業できます」とも言っていません。「自分教」はみんながとりつかれがちなカルト宗教なのです。
前首相の菅さんが就任したとき「まず自助」と言いました。「自分のことは自分でしましょう」というわけです。自分のことは自分でするものでしょうけど、自分のことが自分だけでできるはずはないのです。若者の間で最も聞かれる言葉が「自己責任」だという話も聞きました。「自分さえよければ」というのも「自分教」でしょう。それが「成長教」を生成しており、そのごく一部が、私が教員のときにさんざん見てきた「学歴信仰」だったわけです。「時間を有効に使おう」「効率よく」「前倒しできることは前倒し」。こういった言葉が人を追いつめます。まさにカルト宗教です。この宗教から私たちはどうやったら脱会できるのか?
そんなことを思いながら、この二つのマンガを読みました。これは、本来の意味での「本物の宗教」の欠如が招いている事態ではないでしょうか。結論ありきで理不尽を押し通し、「変わらなきゃ」という強迫観念のようなものを押し付けられる。みんなでそれに洗脳されている。今こそ「本物の宗教」の出番だと思いますよ!
腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。
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