私が大学院生であった2003年、誰も解けなかった数学の難問「ポアンカレ予想」が肯定的に解決されました。私は当時、「3次元多様体論」の日本の第一人者であった小島定吉先生(東工大、当時)による東大でのセミナーを聴いています。「ポアンカレ予想の解決の日本初紹介」を生で聴いたことになります。歴史の1コマにいさせていただいたことを思わされます。数年後、これはNHKが番組にして、日本全国の人の知るところになりました。いろいろ気になる点はありますが、一番気になったのは、この番組を成立させている世間の背景です。「数学者って何をやっているのかな。数学といえば、学生時代、たくさん問題を解かされたなあ。そうだ! 世界的な数学者は世界的な問題を解いているに違いない」という認識があって成立している番組であることは明らかだったからです。
大型の書店などに行って数学の本を見ますと、理工学書のほか、統計学の本や、プログラミングの本などが目立ちます。それ以外では、圧倒的に、「学習参考書」です。高校までの算数・数学の本の99パーセント以上は、受験用の「問題集」なのです。世の中の「暗黙のうちに数学とは問題を解くものだと思っている」証拠を挙げます。啓林館の『わくわく算数3上』という小学3年生向けの検定教科書の凡例「学習の進め方」というページに何気なく書いてあることです。「どんな問題かな」。小学校3年生の算数の教科書からして「算数とは問題を解くものである」という暗黙の前提がある証拠ではないでしょうか。
四半世紀くらい前に読んだ深谷賢治先生という京都大学(当時)の先生が書いたエッセイにもありました。当時は「ポアンカレ予想」は未解決問題でしたが、世の中が「世界規模で」「100年単位で」問題解決型に向かっていることを憂いておられる文章でした。この傾向は顕著である気がします。文科省が「問題解決型学習」というものを導入していたこともあります。私たちも、クイズ番組は好きです。「この漢字の読みは?」といった問題は好きですが、「環境問題」とかいう「本物の問題」には目を背けています。ある人が言っていましたが、問題解決とは、現代の呪いではないでしょうか。
多くの人は「解決」よりも「共感」を求めています。問題は解決できなくても「そうだったんだね、たいへんだったね」と話を聞いてくれることを望んでいます。私が最近、校正した本にも出てきました。聞き上手というものは、解決しようとしたり、アドバイスをしたりしないそうです。
私たちは、小学生のころから「問題とは解くもの」という観念に汚染されています。「問題解決」の対極にあるものが「気の紛らわし」だと思います。問題は解決しなくても、気の紛らわしで生きていくのです。若いころは「ショスタコーヴィチの交響曲第10番」のような、バカ騒ぎで終わる音楽に違和感を覚えることもありましたが、それは人間の偽らざる姿だと言えるのかもしれません。