多くのクリスチャンは、日曜日は教会に行くことになっています。もちろん、行けないさまざまな事情の人もいますが、日曜の午前というものは、クリスチャンにとって特別な時間で、教会に行って礼拝すべき日なのです。
最初に、印籠みたいに出しては話が通じなくなる恐れがあるのですが、私には睡眠障害があり、月曜から土曜まで必死に早起きして仕事に行っていたら、日曜はもう朝から晩まで寝だめ(寝取り返し)しなくてはなりません。事情を教会の人に話すと、さすがに「それはダメです」という人はいません。「いいですよ、休んでもいいですよ」と優しく言われます。でも、私は、休みたくて休んでいるのではないのだ。行きたいのだ! いま通っている教会は15年以上になりますけれど、いまだに教会員の顔と名前が一致しないし、たまに行くとよく「初めてのかたですか?」と言われます。別に悪くはないですけど、悔しいですね。
教会ではよく「今日、この場を覚えつつも、さまざまな事情があって集えない者を覚えます。どうか、その者たちの上にも神様の豊かな恵みがありますように」と祈っています。私は祈られているのだろうか。というのも、私は、「この場を覚えて」いません。「ああ、いまごろ礼拝をやっているのだろうなあ、行きたいなあ、でも行けないなあ、せめて祈ろう、アーメン」と思っているわけではありません。なぜなら、眠っているからです。たしかに私には「事情」がありますが、じつはサボっているだけなのです。月曜から土曜まで早起きしたとしても、日曜だって目覚ましをかけて行くのであれば、行けなくはない。というか、行ける。そこを眠って行かないわけですから、私はどちらかといえばサボっているのです。
私は、「今日、この場を覚えつつも、さまざまな事情があって集えない者を覚えます。どうか、その者たちの上にも神様の豊かな恵みがありますように」という祈りは嫌いです。集っていない者「にも」恵みがありますようにって、「恵みのおすそわけ」ではない。むしろ、集っていない人「にこそ」恵みがある。私もその一人で、その他そもそも教会に通う習慣のない世の多くの人「にこそ」恵みがあるという祈りだと思います。本来は。
じつは、ハッピーマンデーの前日は必ず教会に通っていたという「忠実な」信徒でもあります。翌日に寝だめができますからね。「成人の日の前日」とか、「海の日の前日」とかですね。もっとも「成人の日の前日」の次が、イースターもペンテコステも飛ばして、「海の日の前日」になったりしますけどね。それで「初めてですか?」攻撃にも耐えて、通っていたのです。
いまの私は、もっぱら礼拝には行けませんし、献金も一昨年から「滞納」していますし、「ご奉仕」もできていませんし、総会にも出ませんし、とんでもない教会員ですが、この文章を読んで「いいんですよ、いいんですよ」とお思いになったかもしれません。それが気に食わないのです! 私は行きたいのです! しかも行けないわけではなく、サボっているのです! だから同情に値しないというのですか?
聖書には「日曜日は教会へ」と書いてはおらず、「月定献金をささげましょう」とも書いてありません。イエスはむしろそういうことは嫌いだったのではないでしょうか。私が教会に行けない「事情」は、天の神様だけはわかるでしょう。
腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。