私の親友に、ある宗教団体の脱会者がいます。その宗教団体を「カルトだ」と言っていた彼に、「カルトと普通の宗教(キリスト教)とは、何が違うの?」と聞いてみたことがあります。「カルトは、出てくる人、出てくる人、みんな同じことを言う。キリスト教は、出てくる人、出てくる人、みんな違うことを言う」との答えでした。同じ宗教を信じていながら、一人ひとりの信仰のあり方が違う。ということは、健全な宗教である証しなのだと思いました。
例えば私の所属している教会では、「このイエスの言葉は、本来のイエスの言葉ではない!」といった説教が、頻繁に聞かれます。それ自体はかまわないと思いますが、そのようなメッセージが語られたある礼拝の分かち合いの時間で、ある方が「本物のイエスの言葉からなる福音書を読んでみたい」という感想を語られました。そう言いたくなる気持ちは十分にわかるとして、しかし私は、そのような後世の加筆のたくさん入った現在の聖書そのものが、聖書のよさなのではないかと思います。聖書という書物は、清濁あわせ飲んでいるのだと思います。大物なのですね。
たぶん、「ニセモノの」イエスの言葉をどんどん聖書から削除していって「本物のイエスの言葉からなる福音書」をつくると、カルト宗教ができるのでしょうね。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、パウロ、みんな違うことを言っているところが、聖書の健全なところであり、ひいてはキリスト教が健全な宗教である証しなのでしょうね。
ある日の役員会で、とにかく初来会者の多い教会なので、新来会者に質問をされたとき、牧師が不在でもある程度は答えられるよう、マニュアルを整備すべきという話が出ましたが、正直それは不要だと思いました。なぜなら、聞く人、聞く人ごとに返事がまったく異なり、時には「うーん……」と言って返答につまる人もいるという状況が、まさにその教会が健全である証しだと思うからです。
私は、そのような、首尾一貫しない聖書が大好きです。私自身、首尾一貫しない人間であることはみなさんよくご存じで、そもそも私は、よくウソもつくし、ひどいことも言うし、ろくでもない人間です。しかし、そのように神様は私を創造されました。私は、自分が神様の失敗作だとは思っていません。ちょうど、「誤りない神のみ言葉」である聖書が、矛盾だらけで良いことも悪いことも書いてある不完全な(そして完全な)書物であると同様、私も聖書のような不完全な(しかし神の恵みは完全な)人間なのです。私の歩んでいる人生は、支離滅裂です。しかし、神様がなさることに無意味なことはないと信じて歩んでいます。
病気に倒れて、ずいぶん聖書を読みました。学生時代、通読7周の記録を持っていた私は、このダウンで聖書通読10周の記録を作りました。したがって、マニアックなところもずいぶん読んでいます。エズラ記、ネヘミヤ記あたりを読んでいたころ思ったことですが、そこにはすごく熱心な信仰が書かれています。ある意味、非常に正統主義的で排他的な信仰がこれでもかと書いてあり、私は読みながら愕然としておりましたが、そこまで含めて聖書なのです。そういう人の陥りやすい罪も書いてあるのです。
みんな違うことを言う。それが、カルト宗教との違いであり、キリスト教の豊かさだと思っております。
腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。