数年前、ある牧師さんに安冨歩(やすとみ・あゆみ)著『生きる技法』を勧められました。「自立とは依存することだ」というその本の主張を最初に聞いた私の反応は「変わったことを主張する人ですね」でした。
しかし、だんだん著者の言いたいことがわかってきました。助けてもらわないと人は生きていけないからです。「助けてください、と言えたとき、あなたは自立している」という安冨さんの主張も、いまは非常に納得がいきます。自立とは「助けて」と言えることであり、人に頼らないことを自立と言うのではなく人に頼ることを自立と言うのです。
安冨さんがある教会で行った講演の記録を読んだことがあります。中世の神学者エックハルトが出てきました。岩波文庫の『エックハルト説教集』の冒頭に収録されているエックハルトの説教で、「善行を積んで天国に入れてもらおうとする人は、神と取引をする商人であって、商人はイエスが神殿から追い出すぞ」と言っているものについて語っておられます。つまり、自分の善行で天国に行こうとする人は自分の力で救われようとしている人であり、一見、自立しているように見えますが、実際には神に頼らないで生きようとしているわけです。エックハルトの言いかたでは「神と取引する者」です。「善いことをしたから天国に入れてよ」と言っているわけです。しかし、他者に頼って生きるのが人間の本質です。神に頼り、人に頼って生きるのが人間の本質であり、人に頼ることを自立と言うのです。「自立とは依存することだ」というのは本当でありました!
その命題を安冨さんは「小島=中村の原理」と呼んでいます。小島直子さんという重い障害を持った人が、その自伝のなかで、たくさんの人に依存することによって自立しているという事実を書き、それを中村尚司さんという経済学者が読んで、「自立とは依存することだ」と論文に書いたというのです。安冨さんが「おわりに」で挙げている本のなかで『論語』があります。ただし、安冨さんは、従来の論語の読みかたは基本的に間違っていると書いています。それは小島=中村の原理から読んでいないからだと書いています。私は『論語』には詳しくありませんが、その代わり『聖書』をこの視点から読み直しています。いままでの聖書の読みかたが「間違っている」とまで言い切ったりはしませんが、私の聖書の読みかたが、既存の聖書の主流の読みかたと少し異なるのは確かだと思います。どれほど偉大な学者でも、自分に都合よく聖書を読んでいます。だからいいのです。私は実際に自分が生きる上での知恵を、聖書からもらっています。どれほど聖書に助けられているかわかりません。
ほかに安冨さんはガンジー、グリューン、フロムなどの本を挙げたうえで、親鸞も紹介しています。親鸞の「他力」という発想は、まさに人は助けてもらわないと生きていけないという本質を突いたものであり、自立とは依存することであると言っているようなものです。仏様という「他」の「力」に頼るのです。親鸞自身の著作は難しいけれども『歎異抄』は読みやすい、と書いてあります。私も『歎異抄』はすごいと思います。最後に安冨さんはマイケル・ジャクソンを挙げています。私はほとんどマイケル・ジャクソンを知りませんが、こういう思想を唱える人は、どの時代にも、どの世界にもいるということでしょう。
ようするにこの本の言いたいことは「人に頼らないことを自立と言うのではなく、人に頼ることを自立と言う」ということです。アーメン(その通り)!