新約聖書ルカによる福音書(10章38節以下)に、マルタとマリアという姉妹が出てきます。有名な話ですが、あの膨大な聖書のなかで、この話が出るのは一瞬です。極めて短い話です。弟のラザロが死んで復活するときの話ではなく、イエスがマルタとマリアのところに行ったときの話です。イエスはなぜかマリアばかりえこひいきします。マルタはおもてなしで大忙しです。理不尽です。そこでマルタはイエスに次のように言います。「主よ、わたしの姉妹(マリア)はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。これは、はたから見たら、マルタがイエスに不平不満を言っているように見えます。しかし、本人は不平不満を言っているつもりはないでしょう。理不尽なのだから当然のことを言っているように見えます。でも、たとえば「マルタは嫉妬のあまりマリアを殺した」とかいう話にはなっていません。当たり前かもしれませんが、マルタは不平不満を言うことによってだいぶ気が済んでいる面があると思われます。
思えば、私もまた不平不満の多い人間です。理不尽な目にあってきているからです。そういう人は嫌われるのですが、でも、無自覚的に不平不満の多い人間になっています。構造としては、マルタの状況に似ています。神様によって理不尽な目にあって不平不満を言っている。でも、だれかが私の不平不満を聞いてくれると少しは気がまぎれます。
同じルカによる福音書の15章11節以下には放蕩(ほうとう)息子のたとえがあります。これはマルタとマリアの話とは違って、イエスの語ったたとえ話です。ある人に2人の息子がいて、父に財産の分け前をもらった弟が何日もたたないうちに、それらをすべて金に換えて遠い国に行き、放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣いし、使い果たしたころ飢饉が起きて、食べるものもなく、とにかくいろいろな目にあって帰ってくるのですが、父親は「最高の着物を持って来なさい。指輪もいるぞ。履物も。今日は肥えた子牛をほふろう。バーベキュー大会だ。お祝いだ。わしはメチャクチャにうれしい」と言うのです(奥田知志『ユダよ、帰れ』192頁)。父親はその弟を全面的に受け入れたのです。
なぜイエスは、これを兄弟のたとえとして語ったのでしょうか。兄を出す理由がわかりません。ある人に息子がいて、財産をわけてほしいと言ったのでわけてやったら、何日もしないうちに彼はそれを現金に換えて遠い国へ行って放蕩の限りをつくし……という感じでも話は成立します。じつは、兄の出番は弟が帰ってきて、バーベキュー大会を始めた後なのです。兄は畑にいたのです。音楽や踊りのざわめきが聞こえてきました。なにごとかとしもべに聞きますと、弟さんが帰ってきたので、バーベキュー大会をやっているといいます。兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめました。しかし、兄は父親に次のように言います。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠(ほふ)っておやりになる」。
この兄は父に不平不満を言っています。理不尽だからです。でも、私の想像なのですが、お兄さん、この不平不満を言うことによってだいぶ気が済んだのではないかと思うのです。兄はこの後、バーベキュー大会に参加したような気がします。いかがでしょうか。不平不満を言えている人って、それで気が済むようなところがあると思うのです。
旧約聖書の創世記4章1節以下にあるカインとアベルの話では、兄弟ともに神へささげものをささげるのですが、神はなぜかアベルのささげものだけに目を留めるのです。これも神のえこひいきです。カインは納得がいきません。理不尽だからです。しかし、聖書には、カインが不平不満を言っている場面が出てきません。そして、カインは弟アベルを襲って殺してしまいます。もしカインが誰かに愚痴を聞いてもらえていたら、こんなことはしなくて済んだ気がするのですが、いかがでしょうか。
先日、ある地方都市に住む高校2年生が、東大の試験会場に行って、刃物で人を刺す事件がありました。その高校生は、東大の医学部(理科三類)に行きたかったようですが、成績が落ちていて、絶望していたようです。高校の教師だった私は想像しました。私の勤めていた学校の職員室ではよく「迫る」という言いかたをしていました。悪い意味ではありません。普通に使う言葉です。「お前、そんな成績ではどこにも受からないぞ」と生徒をおどすことを「迫る」という言いかたをしていたのです。その生徒は、おそらく迫られ過ぎたのでしょう。彼は不平不満が言えていなかったから、わざわざ東京まで行って人を刺したのではないかと思ったりするのです。カインみたいなものです。おそらく理不尽な目にあってきたことでしょう。もちろん人を刺したら絶対にいけないのであって彼を弁護することはできないのですが、もし彼の愚痴を聞いてくれる人がいたら、あのような事件は起きていないのではないかと思ったりします。
たとえば、勉強と関係のない、血もつながっていない、年齢も離れているような人がいて、彼の愚痴を聞いて「ふーん、たいへんだねえ」とか言ってくれていたら、あのような事件は起きなかったのではないかと。実際、そういう大人がいてくれて、そのような犯行に及んでいないケースは世の中にたくさんあるだろうと思います。私はかつての秋葉原の通り魔事件の犯人の気持ちが、痛いほどわかったときがあります。私もそうしたくなる気持ちがあるからです。もしそういう気持ちが、不平不満を言ったり愚痴を聞いてもらったりすることで軽減するなら、多少の不平不満は聞いたらいいのではないでしょうか。
不平不満を言う人は、たいがい神様に言っていることに気づきます。不平不満は神様にしか言えないの? 神様にしか愚痴が言えないとしたら、少なくとも私は耐えられないですね。クリスチャンでもいるのです、神様にだけ何でも言えるけれど、人には言えないタイプ。私のあるガチのクリスチャン友人は、母親から「泣くな。神の前で泣け」と言われて育ったそうです。この人の母親は厳しいというよりは信仰的に厳格なだけで、本人も悪い意味での洗脳はされておらず、笑いながら、きつい~と言っていましたけど。
とにかく、神様にしか愚痴を言ってはいけないと聖書が言いたいのなら、それはかんべんしてください。ここまで聖書の話をしてきましたけど、神と同じくらい隣人が大切なら、隣人にも不平不満を言うべきです。「言うべき」と言うべきか、無自覚で言うのが不平不満ですけどね。不平不満を言う相手がいないと、カインみたいに殺人をしそうです。だから、皆さん私の愚痴を聞いてね。ごめんね。私はだれかに愚痴を聞いてもらわないと生きていけないのです。あまり不平不満を言っていると嫌われるのはわかっています。ですから、なるべくたくさんの人に、ちょっとずつ愚痴が言いたいのです。皆さん、どうか助けてください! お金も困っているけど、不平不満を聞いてください!