コロナ禍による観光客の減少で、2026年の完成がほぼ不可能となったスペイン北東部バルセロナの世界遺産サグラダ・ファミリア教会。着工から130年以上が経ち、その完成には常に関心が集まってきたが、今回完成が予定されていた2026年は設計者アントニオ・ガウディ(1852~1926年)の没後100年でもあった。
未完でありながら見る人を魅了する、サグラダ・ファミリア教会。ラテン語でサグラダは「聖なる」、ファミリアが「家族」と訳され、これは、イエスと聖母マリア、そこに養父ヨセフを加えた聖家族に捧げる、罪を贖(あがな)う貧しき者たちの聖堂という意味になる。その建設は、19世紀の終わり、1882年に始められた。ガウディの作品として有名だが、初代主任建築家は、バルセロナ司教区の建築家だったビリャール・ロサーノで、その後を引き継いだのがガウディだった。1883年11月3日、ガウディ31歳の時だった。
サグラダ・ファミリアは、18本の塔とその後陣の建物、そして主祭壇などが置かれる聖堂本体によって構成される。18本の塔は、イエス・キリストを象徴する「イエスの塔」を中央に、その少し後ろに「聖母マリアの塔」、それらを囲む4本の「福音書記者の塔」、さらにそれらまわりに十二使徒をあらわす12本の塔が建つ。ファサードは、東に向けられた「生誕の門」、西に向けられた「受難の門」、南に向けられた「栄光の門」の3つがあり、そのうち、生誕の門と受難の門は完成している。この生誕の門の彫刻を担当したのが、日本で唯一、サグラダ・ファミリアの建設に携わる外尾悦郎(そとお・えつろう)さんだ。
外尾さんは、1978年、サグラダ・ファミリアの石に魅せられて以来、40年以上にわたって大聖堂で彫刻家として活躍する。2000年に、15体の天使像を完成させたことで生誕の門は完成し、05年には世界文化遺産として登録された。また、ガウディをもっと知りたいという思いから1991年に洗礼を受け、カトリックに改宗した。この時の思いを次のように語っている。
「よそ目にはひどい決断に思えるかもしれません。もっぱら職業上の必要性から決めたわけですから。でも、本当にだめだと決めつけられるでしょうか。(中略)誰がいつどのように神に従うかを知るのは、究極の知性にしかできないことです。神はわたしがよきプロフェッショナルに、よき彫刻家になりたがったいることを、自分の責務を全うしたいと思っていることを知っていました。だからわたしの背中を押したのです」(『サグラダ・ファミリア ガウディとの対話』(2011年)183ページ)。
ガウディとの出会いが、外尾さんをキリスト教へと向かわせたように、ガウディもサグラダ・ファミリアによって、敬虔なクリスチャンへと変貌していった。一説によると、ガウディは、若い頃は、信仰心を持っていなかったばかりか、熱心な信者を愚弄していたという。それが、サグラダ・ファミリアの主任建築家に就任したことで、キリスト教を熱心に学ぶようになり、その教義の中から深い精神性を見い出し、『典礼儀式暦』を肌身離さず持ち歩いていた。
当時資金難もあって遅々として進まなかった建設が本格化した1894年には、ガウディは命が危ぶまれるほどの断食を行っている。「身を清めなければならない」の一心での危険な断食をストップさせたのは、カタロニアのカトリック教会のエース、トラス・イ・パジャス神父の「あなたは、生きつづけてサグラダ・ファミリア教会を建設するという神が与えた使命がある」(田澤耕『ガウディ伝』2011年)だった。
外尾さんは、一般で評される「狂信的な天才建築家」といった見方はせず、サグラダ・ファミリアと神の前で、自分というものをどんどん小さくしていったガウディの姿を思い描く。そして、教会という「神の家」に住む人たちのために最高のものをつくろうとするガウディの誠実さをその姿に見ている。
「最晩年のガウディは、物理的にサグラダ・ファミリアの中で生きていたという以上に、精神的に、その中で生きていたと思います」(『ガウディの伝言』257ページ)
グエル公園やコローニア・グエルなど数々の傑作も残しているガウディだが、芸術家としては異端視されることも多く、晩年は社会に向けて開いていた扉を閉じ、サグラダ・ファミリアの完成を未来に託すことだけに全てをささげている。その時のガウディに外尾さんは思いを馳せる。
「最晩年のガウディは、物理的にサグラダ・ファミリアの中で生きていたという以上に、精神的に、その中で生きていたと思います」(『ガウディの伝言』257ページ)
1926年6月7日、ガウディがミサに向かう前、職人たちに言った言葉がサグラダ・ファミリアでの最後の言葉となった。
「諸君、明日はもっと良いものをつくろう」