末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の若き宣教師、シスター・パクストンとシスター・バーンズは森の中の一軒家を訪れる。訪問を依頼してきたのは気さくな紳士のミスター・リード。宗教対話を求める彼に応じて屋敷に足を踏み入れた2人は、まもなくそれが罠だったと気づく。監禁するために改造されたその屋敷から脱出するには、リードが強制する「実験」に応じなければならない。
『異端者の家』は宗教対話と脱出スリラーが融合した異色作。舞台となる屋敷はその平凡な外観と異なり、迷路のように地下に広がっていて、進めば進むほど暗く邪悪になっていく。その二面性は、家主リードの精神構造を反映しているかのようだ。おしゃべり好きで無害そうな老人が、実は醜悪な欲望と暴力を内に秘めている。やはり人は見かけによらないと再確認させられる。
そんなリードと対決せざるを得ない2人のシスターは、一見単純で、物事を深く考えないタイプに見える。宗教の訪問勧誘と聞いて、私たちが安易に想像する薄っぺらい人物像に。けれど徐々に明らかになる通り、2人とも単純に教義を信じているわけではないし、物事を楽観しているわけでもない。特にパクストンは物語が進むにつれて、篤い信仰者であると同時に冷静な現実主義者であることが分かる。彼女の観察力、洞察力はリードと互角に対峙するほどで、本作のミステリー部分における探偵役を担う。つまりこの映画においては、人物も建物も決して見た目の印象通りではない。
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原題は『HERETIC(異端者)』。末日聖徒イエス・キリスト教会のシスターたちから見れば、リードがこの異端者に当たる。けれどリードから見れば逆に2人が異端者だし、他宗教の視聴者から見れば全員が異端者だろう。そのように、何を異端とするかは立場によって変わる。リードの主張の要点はまさにそこにあり、ゆえにどの宗教も似たような派生物であり、どの宗教も完全ではない、となる。
その結果リードが導き出した「答え」は、おそらくどの宗教にも潜在する、構造的欠陥を鋭く指摘する。一方のパクストンはそれでも信仰を持つことの素晴らしさ、尊さを語る。本作は全編を通じて濃厚な宗教対話が展開するが、この正反対の2人が正面からぶつかり合う終盤は、まさにクライマックスだ。信仰を持つ視聴者は、果たしてどちらに共感するだろうか。
主人公の2人のシスターも正反対のタイプだ。素朴で真面目なパクストンと冷静で行動的なバーンズは、たまたま宣教のペアを組んでいるだけで、親しい間柄ではない。しかしリードの屋敷に監禁されたことで、強く結束していく。圧倒的な男性中心社会(リードによる監禁支配)に抗い、性格や思想や立場の違いを越えて連帯する女性たちの姿は、そのままフェミニズム運動の体現と見ることができる。
末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師に限らず、信仰を持つ女性には(おそらく男性以上に)従順や貞淑といったステレオタイプなイメージが付いて回る。しかしパクストンとバーンズは、冒頭の会話でいきなりそれを破壊するだけでなく、初期の教えだった一夫多妻制を批判し、「魔法の下着」という自分たちを揶揄する表現さえ逆手に取る。バーンズに至ってはSRHR(セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ)の実践者だ。決して従順なだけの信仰者でなく、教義に従う部分と、反する部分をうまく使い分けている。
しかしリードの屋敷から脱出するには、まさにそれが必要な資質となる。従順であればリードが理想とする「天国」に行けるかもしれないが、決して外には出られない。この展開が想起させるのは、アメリカの俳優メイ・ウエストの言葉で、しばしばフェミニズムの文脈で引用されるこのフレーズだ。「いい子は天国に行ける。でも悪女はどこへでも行ける」
本作は宗教勧誘に従事する女性たちが、さまざまな危険に遭遇し得ることも語る。彼女たちを守る仕組みは十分に確立されているだろうか。そもそもその被害は十分に把握されているだろうか。この映画がその注意喚起となり、状況の改善につながることを願ってやまない。
(ライター 河島文成)
2025年4月25日(金)TOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開
配給:ハピネットファントム・スタジオ
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