映画「アダムズ・アップル」(脚本と監督:アナス・トマス・イェンセン、10月19日公開)は、「愛なる神がどうして人間に災いをもたらすのか」という、古今の神学や文学などで繰り返し問われてきた神義論をめぐるヒューマン・コメディ。とはいえ、ハリウッドなどの分かりやすいコメディとは違って、シリアスだが、どこかおかしくてニヤリとさせられる、現代的なブラック・ユーモアに満ちた北欧映画らしい大人の作品といえる。
デンマークの田舎の教会に、保護観察中の受刑者が更正のためにやって来る。スキンヘッドのアダム(ウルリッヒ・トムセン)は、「ネオナチの根っからの悪党」と自ら豪語し、すぐに暴力をふるう。生真面目で善良そうな牧師イヴァン(マッツ・ミケルセン)のもとで本来の人間の姿に目覚め、社会復帰への道を歩みだすストーリーかと思いきや、その予想は次々に覆される。イヴァンの背景が明らかにされるたびに、物語は深みを増していくのだ。
教会には1本の大きなリンゴの木がはえている。「教会でやるべき目標は自分で決めるように」と言われたアダムは、そのリンゴで「デカいアップル・ケーキを焼く」と答える。しかしその後、その木に次々と災難が襲いかかるのだ。ヒッチコックのスリラー映画「鳥」へのオマージュのように、たくさんのカラスがリンゴをつつく。カラスを退治すると今度は、エリック・カールの「はらぺこあおむし」のように、いもむしによって食い荒らされる。そして、ついには……。
リンゴだけではない。ケーキを焼くためのオーブンも壊れ、新しいのを買っても、落雷でショートしてしまう。そのたびにイヴァンは、「悪魔が私たちを試している。戦いを挑んでいるんだ」と、自らに言い聞かすかのごとく、信仰的にとらえるようアダムに助言するのだ。
教会にはほかに、アルコール依存症で始終何かを食べている、窃盗癖のある強姦魔のグナー、ガソリン・スタンド強盗を繰り返してきたアラブ人のカリドが住み込む。また、男に逃げられ、「障がいのある子どもを妊娠しているのではないか」と涙ながらに相談に来るサラ、強制収容所で働いていた過去の罪に心が責められ続けている老人のポール、イヴァンの心理を合理的に解説するマッド・サイエンティストのような医者、そしてアダムのネオナチ仲間も物語に絡んでくる。キリスト教で「七つの大罪」といわれる「傲慢」「嫉妬(ねたみ)」「憤怒」「怠惰」「強欲(貪欲)」「暴食(貪食)」「色欲」を体現するような登場人物たちばかりだ。
物語の何が一筋縄でいかないかというと(そして現代的で上手いと思うのは)、牧師のイヴァンがまず変わり者として描かれていること。そのため、自然と主人公アダムに観客は感情移入するよう導かれる。アダムは、創世記2~3章に描かれる「善悪の知識の木」の実を食べたアダムが下敷きで、信仰を見下す現代人そのもの。もし牧師が人格者だったら、かえって観客はリアリティーを感じないだろう。
毎朝、教会の鐘が大きな音で鳴るたび、またドアがバタンと閉められるたびに、十字架に置き換えて自分で飾ったヒトラーの肖像額と、イヴァンからもらった聖書が落ち、必ずヨブ記が開かれる。さまざまな試練にあったヨブが友人たちと議論する中で信仰が揺らぐという、まさに「神義論」をテーマにした旧約聖書の一書だ。無視し続けたアダムもついに根負けしてヨブ記を読み、ヨブの友人たちのようにイヴァンを追い詰めて信仰を捨てさせることに成功する。だが、その時になって初めて大切なことに気づかされるのだ。
いくら現実を直視しようとしない変わり者であっても、イヴァンは、古今の映画や文学などで描かれてきたように、明らかにキリストのメタファーだ。おそらくロシア民話の「イワンのばか」を意識して命名されたと思われる。
教会のワンボックス・カーでイヴァンはお気に入りのビー・ジーズ「愛はきらめきの中に」のカセットテープをかけようとするが、いつもアダムに切られてしまう。キリスト教圏のラブソングはしばしば神への愛とダブル・ミーニングとして作られることが多いが、この曲はまさにこの映画のメッセージだろう。
あなたの愛はどのくらい深いのだろう
私は学ぶ必要がある
私たちを気落ちさせる愚かな人ばかりの世界で生きていく理由を
カラスやいもむしの難に見舞われるリンゴの木は、「信仰」の象徴だ。私たちの信仰の生涯にもさまざまな苦難が「これでもか」と言うほど襲いかかってくるのではないだろうか。このリンゴの木の顛末(てんまつ)はかなり悲惨だが、最後に希望あふれる短いシーンが挟み込まれているのをぜひ見逃さないでほしい。