主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、ヨハネの手紙第一の2章です。よろしくどうぞ。
ヨハネの手紙第一 2章16〜17節
すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
先日、とある仕事で高級住宅街を歩いていたのですが、もうそこには本当に「これはもはや家ではなく城だな」と思えてしまうような豪邸が立ち並んでいました。でも、そんな豪邸の中には「元豪邸」と呼べるような、大きな荒れ家もあったりしました。屋根も壁もあちこち剥がれ落ち、門ももはや門の役割を果たせないほどに崩れています。昔はさぞや立派な豪邸だったのでしょうが、今は誰も住みたがらないでしょうし、そもそも住むことができないでしょう。どんなに立派な家を建てても、時間が経てばこのように崩れた荒れ家になってしまうのだということを思い知らされました。
「新しい価値観」というのも、似たような性質を持っています。「これは新しい、素晴らしい考え方だぞ」と、もてはやされる価値観というのはいつの時代にもあるものですし、今だって日々生まれ続けています。しかし、その多くは一年もしないうちに忘れ去られ、十年もすればほとんどすべてが消え去ります。長く残るのは、ほんの一握り、いや、ひとつまみと言ったほうが良いかもしれないほどです。そのひとつまみでさえ、百年、千年の時代を超えて残るものはほとんどありません。
家も、価値観も、世のものはみんな過ぎ去ります。ごくごく一部のものを除いては。ではそのごくごく一部と、他のものの違いは何なのでしょう。その違いの大きな一つは「世の欲」に根ざしているか否かかと思います。多くの家は「良い暮らしがしたい」という欲に根ざして建てられます。価値観も「自分が認められたい」「こういう価値観を流行させれば商業的に有利になる」というような欲に根ざしたものはあっという間に廃れます。
キリストはどうして二千年の時を超えて、キリストであり続けるのか。それは欲に根ざしていないからです。欲に根ざしたのならば、自分から十字架に向かって行ったりなんて決してしません。キリスト自身、十字架の前夜にはゲツセマネで「十字架なんて嫌だ!できることなら避けたい!」と嘆いていますし、避けようと思えば避けられる機会は多々ありました。しかしもしキリストが十字架につかず、弟子たちに囲まれて信徒を増やし、豊かな暮らしをする「教祖」として長生きしていたら、その教えはとうの昔に消え去っていたことでしょう。
タレスもソクラテスもプラトンもアリストテレスも、己の欲とは離れて思想を説いたからこそ、今日まで廃れることなくその思想が語り継がれています。キルケゴールやパスカルが、己の暮らし向きのために思想を残しましたか。
僕たちは日々、様々なことをします。その動機は、欲に根ざしているでしょうか。欲に根ざすことがすべて悪いとは言いません。しかし、長く残るものを望むのならば、その吟味を欠かすことはできません。僕だって暮らしのためにする仕事も多々あります。むしろ大半の仕事がそうです。しかし、そういう仕事と、そうでない仕事とには、しっかりと線引きをしなくては、真に神に仕える者とは言えないと、肝に銘じたいと思います。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
