主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、雅歌の7章です。よろしくどうぞ。
雅歌 7章12節
私たちは朝早くからぶどう畑に行き、
ぶどうの木が芽を出したか、
ぶどうの木が花を咲かせたか、
ざくろの花が咲いたかどうかを見ましょう。
そこで私は、私の愛をあなたにささげます。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
雅歌は言うなれば聖書のラブソング集です。この7章も例に漏れず、読んでいるこっちがちょっと恥ずかしくなるほどに熱烈な愛情表現が並んでいます。そしてその終わり近く、いわばクライマックスになって、ぶどう畑の様子をみようとか、ざくろの花が咲いたかをみようとか、急に日常的なことが愛情表現として記されています。
現代日本の僕たちは愛する人に愛情表現をするとき、つい「ロマンチックな夜景の見えるレストラン」だとか、「湖のほとりのおしゃれなペンション」だとか、非日常を求めてしまったりします。僕の乏しい恋愛経験を振り返ってみても、誰かに愛を告白するにせよ、ラブレターを書くにせよ、それはいつもどこか非日常な心理状態であったように思います。たぶん、だから随分と長いこと結婚もせずにいたのかもしれません。愛情を非日常だと思っていたから。
でも、愛って本来は非日常なものではなく、日常的なものです。どれほどロマンチックかつドラマチックな展開の大恋愛を経たカップルであっても、その後の二人の生活は日常でしかありません。ハリウッド映画のラストシーンで劇的なキスを交わしたカップルだって、翌日からは日常生活の中で愛を育んでゆくわけです。
「ドラマチック」や「ロマンチック」は愛のきっかけにはなっても、愛を育むメインステージにはなりません。愛が育まれるメインステージはあくまで日常なんです。「ぶどうの目が出たね」「今日は花が咲いたね」と、日常の風景を共有することにこそ、真の愛があるのかと思います。
もっとも現代日本においてはぶどう畑とかざくろの花だとかだって、非日常かもしれません。それなら「今日はキャベツが特売だったね」とか「今日は電車の乗り継ぎがうまくいったね」とか「郵便受けにピザ屋のクーポンが入っていたよ」とか、そんな他愛もない一つ一つの日常を大切に共有することが愛を育む栄養になるのだと思います。
そしてこれはカップルだけに限ったことではありません。「自分自身を愛する」ということにおいてもまったく同じことです。日常の一つ一つの恵みを丁寧に受け取り、「今日はコーヒーがおいしかったな」とか「午後の日差しがちょっと気持ちよかったな」とか自分で数えあげて噛み締めることが、自分自身の幸せにとっても大切なことです。
愛も幸せも、非日常ではなく日常にこそあるんです。大きな愛とか大きな幸せとか、そんなものはどこを探したってありません。もしかしたら「それに似たもの」はあるかもしれませんけれど、そんなのは一夜の幻のようなものです。愛も幸せも一つ一つは小さいんです。それをいかに見つけて受け止めるか、それが愛のコツであり幸せのコツでもあるんです。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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