礼拝は「休息のためのシステム」【聖書からよもやま話558】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、レビ記の23章です。よろしくどうぞ。

レビ記 23章3節

六日間は仕事をする。しかし、七日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。あなたがたは、いかなる仕事もしてはならない。この日は、あなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

クリスチャンは週に一度、日曜日に礼拝をします。ごく一部、土曜日に礼拝をする教派があったりもしますが、いずれにせよ週に一度、礼拝をします。つまり、6日間は自分の仕事をして、1日は「聖なる会合」をするということです。

ここに、その1日には「いかなる仕事もしてはならない。」と書いてあります。これが現代のクリスチャンの間では議論が巻き起こるところです。日曜日に仕事をしなければならない人もいますし、日曜日に誰も働く人がいなければ、クリスチャンが教会に行くことさえままなりません。電車も止まってしまうわけですから。水やガスが止まったら午後のランチ会もできませんし、電気が止まってしまったらそもそも礼拝そのものさえ、現代では色々と支障が出てくることでしょう。

ですから僕は「日曜日に働くなんてけしからん!」なんてことは思いません。しかし、僕自身のことをつらつらと思い返してみるに、この「日曜日は働いてはいけない」という命令にも理があるよな、とも思います。たとえば僕は時々、礼拝が終わった後の午後に仕事のアポイントを入れたりすることがあるのですけれど、そうすると、礼拝をしているうちから午後のアポイントのことを考えてしまって、なかなか神様への祈りに集中できなくなってしまったりします。ですからやっぱり日曜日は、できる限りは他の予定を入れずに礼拝に集中するようにしたいと思っています。

それと、日曜日に働かなくてはいけない人でも、週に一度は「今日は仕事をしない。仕事のことは忘れる!」という日を設けておかないと、肉体的にも精神的にも疲れ果ててしまうかと思います。人間って放っておくと際限なく働いてしまったりするものですから。ですから神様のこの命令は「週に一度はちゃんと休めよ!じゃないとすごく健康に悪いぞ!」ということなのではないかと思います。

とはいえ、それでもただ休むだけでは心をすっかり仕事から離すというのは難しいものです。つい仕事のことを考えてしまったり、メールのやりとりくらいはしてしまったり、なかなか真の休みをとることは難しかったりします。しかしそこに礼拝という「やること」が生じると、心がそっちに向くので仕事のことを考えにくくなります。つまり週に一度の礼拝というのは「休息をとるためのシステム」「仕事を忘れるためのシステム」なんです。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書 11章28節)

僕は、礼拝の本質というのはこの聖句にこそあると思っています。礼拝は義務でも重荷でもなく、休息なんです。それを義務や重荷にしてはいけません。

それではまた。

主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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