宇和島中町教会の教会学校では、昨年度より、クリスマス礼拝の献金をどこにおささげするか、子どもたちが選べるようにしています。今年度の候補は、ガザ、ウクライナ、能登半島でした。それぞれの地で人々がどんな状況の中で生活をしているかのちょっとした解説と、献金袋の展開図のついたプリントを事前に配布し、当日は自作した袋を持って礼拝に集います。献金がどんなところに届くのか、その先にどのような状況に置かれている人がいるかを想像することによって、祈りをもっておささげすることの豊かさを味わうことができるとの考えからです。多くの親子が三つの献金先すべてにささげものをしましたが、金額としては能登半島地震被災地への献金が最も多い結果となりました。なかなか進んでいるように見えない被災地の状況に心を寄せた子どもは多かったようです。
前号では、附属幼稚園の園庭に防災倉庫を設置したことを書きました。災害はその地域に暮らす者たちの共通の課題であり、非常時が訪れる前に、信頼関係を構築してともに準備を進めておくことがもっとも理想的です。また、地域とともに災害への備えができたとしても、こうした一見するととても望ましいこと、善いことに見える事柄が、不正義の隠れ蓑になってしまう可能性もあることを忘れてはいけないと思っています。
災害対策では、まずは自分の命は自分で守り(自助)、自分たちのことは自分たちで守り(共助)、そして消防や警察といった公的機関(公助)という順が一般的な考え方のようで、それはそれで納得できますが、近年の被災地をめぐる公的機関の援助を見ていると、本当に公助が遠い存在のように感じます。自助できなければ、共助が機能しなければ、そして公助が与えられなければ、人は、暮らしは、町はどうなってしまうのでしょうか。度重なる災害の被害を受けながら、十分に公的支援を受けられているとは思えない能登半島地震被災地の状況を思う時、来るべき大地震後の四国の姿を重ねて見ている者は私の身近にも大勢います。自助、共助ができるように備えをしていくことは重要ですが、それが政府の棄民政策とも言うべき態度の後押しにつながることがないように、と思うのです。
D・ボンヘッファーはヒトラーがドイツの首相の地位に就いてから10年の後、その10年間を振り返って「人間は特定の状況下で愚鈍にされる」と書き残しています。力が勢いを振るっている状況下で愚鈍にされた結果、人は内面的な自立性を失ったり自分の取るべき態度を発見することを諦めてしまったりするというのです。ボンヘッファーの文脈では、力とはナチス政権を指しているに他なりませんが、抵抗することもできない大災害やそれをめぐる公の動きが私たちから見つめるべきものを見つめる力を奪ってしまうということと重ならないでしょうか。しかしながら、ボンヘッファーは「真の内的解放はほとんどの場合、外的な解放が行われた後に初めて可能である」とも述べています。答えははっきりと見えてはいませんが、身体的な命を守ること、そして真に人間的に生きるいのちを守ることを、教会と地域と、そして行政とともに目指していくことが今後の課題です。
*引用は『ボンヘッファー選集V 十年後』(倉松功、森平太訳、新教出版社、1964年)より
うめさき・すまこ
1991年福岡県生まれ。2004年日本基督教団犀川教会(福岡県)にて受洗。2016年関西学院大学大学院神学研究科前期課程修了。甲山教会(広島県)主任担任教師を経て、2022年より宇和島中町教会(愛媛県)主任担任教師、附属鶴城幼稚園理事長・園長。