主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、マタイの福音書の27章です。よろしくどうぞ。
マタイの福音書 27章22節
総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
イエスはローマ兵に捕まり、総督ピラトの裁きを受けることになりましたが、ピラトは「この人、そんなに悪いことしてなくない?」と、裁くのをためらいました。しかし民衆は「イエスを死刑にしろー!」と騒ぎ立てます。そこでピラトは言いました。「今日はみんなのお祭りの日だから罪人を一人釈放することになってるんだけど、それでこのイエスを釈放する?それともこの有名な極悪人のバラバを解放する?」と民衆に尋ねました。ピラトは「さすがにこれならイエスを釈放できるだろ」と思っていたのですが、民衆の答えは予想外のものでした。「バラバを釈放してイエスを死刑にしろー」。こうしてピラトはバラバを釈放し、イエスに十字架刑を言い渡したのでした。
聖書ではバラバは単に「名の知れた囚人」としか書かれていません。殺人や強盗、暴動などの罪を犯した人だろうと推測はされていますが、その罪状は特定されていません。ですからここではまぁ「とにかくめっちゃ悪い奴」くらいに思っておけば良いのだと思いますけれども、民衆はそんな「とにかくめっちゃ悪い奴」よりもイエスの死刑を望んだということです。どうしてそんなことになったのでしょう。「イエスを憎む律法学者たちが民衆をそそのかしたからだ」というのが定説になっていますし、それはおそらく正しいのでしょうけれど、それだけではないようにも思えます。
人って、昔の大きな罪よりも今の小さな罪の方に注目しがちで、なおかつ重く裁きたがる性質があるのではないでしょうか。バラバがいつ罪を犯して、いつ捕まったのかはわかりませんが、少なくともイエスはその日の前の晩に捕まったばかりの囚人です。つまりいわば「最新のスキャンダル」なわけです。民衆の感情は過去にバラバが起こした事件のことよりも、この最新のスキャンダルに持っていかれたのではないでしょうか。
政治家や有名人がスキャンダルによって失脚するのをよく見ますけれど、何年かして思い出してみると「あれ?あの人ってどんな悪いことをして失脚したんだっけ?」と記憶がおぼろげになっていることがあります。そして改めて調べてみると「あれ?そんな程度のことだったんだっけ?」なんて思わされることもあります。漢字の読み間違いで失脚した(もちろんそれだけではないですが)総理大臣もいましたし。
人は小さなことでも今目の前で、現在進行形で起こっていることを過去に起こったことよりも重視するものです。たとえ過去の出来事が10の大きさを持っていたとしても、現在進行形の1の大きさの事件の方に注目してしまうものです。ピラトにイエスの死刑を迫った民衆にとっても、過去にバラバが起こした数々の悪事よりも目の前で弾劾されているイエスを裁くことの方が大事になってしまったのではないかと思います。もしかしたら何年か後に「あれ?あのとき十字架にかかったイエスって何をやらかしたんだっけ?」なんて言う人だっていたかもしれません。
人間ってそんな「変な熱狂」に陥ってしまいがちなところがありますから、気をつけないといけません。時間の経過がときとして罪と罰のバランスブレイカーになってしまうことがあるんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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