「わたしたちはどれほど信仰があるか」「どうしたらもっと信仰深くなるか」 ―― わたしはこのような話題を全く避けることは賢明なことだと考える。「信仰とは感覚」と考える人がいる。信仰とは「信念に関する感覚」あるいは「敬虔についての感覚」だという。そういう人は「信仰」について検討しているつもりで「情動」を検討してしまっている。「信仰」は「感覚」ではない。信仰は純粋に「同意」の行為である。「心を開く」行為である。「好み」とは全く違う。信仰とは「神がなさること」に関わることで「わたしたちがどう感じるか」に関わらない。
信仰の深さを測る時、わたしたちはまず、自分の観点から計ろうとする。そして常に間違ったものを見てしまう。その代りに、もし「神がなさること」だけに注意を向けると、「神がなしておられること」がどんどん見えてくる。本当にそれは無尽蔵であることに気づく。「神は御霊を計り知れないほど、計測不可能なほどに、お与えになる」(ヨハネ3章34節)とイエスが言った通りに、だ。神は御霊を惜しみなく与えてくださる。神の無限と贅沢さが、ここにはある。しかし自分の側から物ごとを計測していると、決して見つけることは出来ない。
イエスがこう言われた。
「神が御霊を小出しにチョコチョコとお与えになる、などと考えてはいけない。
御父は御子を途方もなく愛される。
御父は御子にすべてのものを引き渡された。
それで、御父はすべてのものを
御子に渡し切ることが出来た。
つまり、賜物の贅沢な分配があるのだ。
だから、御子を受け入れ信頼する人は誰でも、
すべてにおいて、その分け前に与るのだ。」
―― ヨハネによる福音書3章34b~35節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。