10月7日「鏡」

 人は自分がどう見えているかを知るために鏡を見る。人々は自らが何者であるかを知るために詩編を見る。わたしたちは自分の外見を学ぶための素晴らしい道具として鏡を用いる。同じように、自分自身を見出すためのよい手がかりを得るために、わたしたちは詩編を用いる。「ここに新しい皺(しわ)がある」とか「あそこにあるイボはずいぶん前からあったな」という感じで、鏡を使って、わたしたちは色々見出す。できる限りの努力をして「よそ行きの顔」を作ろうと、わたしたちは髭(ひげ)を剃ったり化粧をするが、その時に使うのが鏡である。「古代にあった悲哀の気づき」とか「隠されていた喜びを明らかにする」ために、わたしたちは詩編を用いる。可能な限り「神の御前の自分」を意識し、誠実でありのままの自分であろうとするために、詩編を使う。
 
 自分の鼻の形や顎(あご)の曲がり具合を見せてくれるのが鏡である。他人から教えてもらって初めて気づくことを見せてくれるのが鏡である。自分の魂の形や罪の曲がり具合を、わたしたちに見せてくれるのが詩編である。つまり、わたしたちの内にある深い現実、隠れていて正体不明な現実を見つけるために必要な観点と具体的な呼び方と定義を見せてくれるのが、詩編である。
 

神よ! わが歩みを究め給え。
私の人生を究めてください!
わたし自身の全てを探り出し
厳しく詰問し、試し給え
わが姿を さやかに見せ給え
 ―― 詩編139編23節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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