信仰の道を旅する多くの人は、何がなんでも神を捉えようとする「子どもじみた信仰」から、あたかも「乳離れした子どもが満足するように」愛をもって神に応答する、そのような成熟した信仰の変遷が起こることを述べている。多くの場合、意識の高いクリスチャンの歩みは、自暴自棄に陥ったその瞬間から始まる。神はもちろん、わたしたちのニーズに応えることを拒まない。天にはわたしたちの失望を打ち破る慰めがある。その慰めは「全てが上手く行く。そのやり方でいいのだ」と確信させる。クリスチャンが信じるその初期段階では、神秘的なサインや霊的な高揚感が起こることがある。天からの慰めが到来することは稀なことではない。しかし、弟子として従うことを続けて行くにつれ、この慰めは徐々に感じられなくなる。神はわたしたちが神経症的に依存することを望まない。神をむしろ喜んで信頼することを望む。神はわたしたちを乳離れさせる。幼児期は必要以上に感傷的に延長されることはない。離乳時期はしばしば煩(わずら)わしい。それで次のような誤解も見られる。「わたしがクリスチャンになった時に感じたことがもう感じられなくなった。わたしはもうクリスチャンではないのだろうか? 神はわたしを見捨ててしまったのだろうか? 何か恐ろしく悪いことを、わたしは行ったのだろうか?」、と。
答えは否だ。「神はあなたを捨てたりはしない。あなたが何か悪いことを行ったのでもない。あなたはただ「乳離れ」している最中なのである。母親の言いなりから自由になってきている。神の御許に行く行かないかは、あなたの自由となったのである。ある意味で、主に聞き、主を受け容れ、主を喜ぶためには、あなた自身が心を開いて主を招くか否かにかかっている。
詩編131編の最後の一節には、この新しく獲得された自由が表現されている。「イスラエルよ! 主を待ち望め! これからも、そして、とこしえに!」(詩編131編3節)神と共にいることを選ぼう。神の道を熱望しよう。神の愛に応えよう。
その子(ヨハネ)は健やかに成長し、霊に満たされていた。イスラエルで預言者として初舞台を踏むまで、荒れ野に住んでいた。
―― ルカによる福音書1章80節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。