【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(17) クリスチャンとは?(これから信じるあなたへ②) 福島慎太郎

「クリスチャンってなに?」――よく聞かれる質問だが、案外その答えが難しい。

「イエス様を信じている人」や「洗礼を受けた人」と言えば、まだキリスト教に触れたことのない人は何となく理解できるかもしれない。

でもいざキリスト教に触れた人、それこそ信仰を告白して洗礼を受け、教会に通っている人からはこんな声を聞く。「俺、クリスチャンらしくないからさ」「今週はちょっとクリスチャンぽかった」

この言葉は恐らく自分の感じる信心深さのようなものを物差しにしているのだと思う。そして僕自身も伝道師になった今、正直に言うと毎日「昨日はダメだ」「今日はイイ感じ」と一喜一憂している。そもそもイイ感じってなんだ?

このような思いを抱えている人は実は多いと思う。では「クリスチャン」とは、生活態度や自分の熱心さで日替わり定食みたいに変わってしまうものなのだろうか?

辞書で「クリスチャン」と調べると、おおよそ「イエスを救い主として受け入れる人」と定義されている。であればこの場合、まずイエスの弟子を見るのが適切だろう。彼らこそまさに「クリスチャン」である。

弟子たちはさまざまなきっかけを通してキリストに従った。それぞれ個性は強烈だが、とにかくキリストのためならばと働き続けた。しかしある時転機が訪れる。それが十字架だ。自分たちの救い主が極刑に処せられる。それまで順調に進んでいたと思われる信仰の旅路に、暗雲を超えた暗闇が弟子たちの前に立ちはだかる。

「イエスを救い主として受け入れている人」たちはここでこそ、彼について行くべきであろう。しかしいざその日が来ると「ある弟子は……」「この弟子は……」と語る隙もなく、全員逃げ出した。みなイエスをキリスト(救い主)と信じていたはずなのに、一目散に十字架から逃げ出した。

一体「クリスチャン」とは何なのだろうか。彼らには果たして信仰があったのか、そもそも信仰とはどういう意味なのか。勇ましく見えた彼らの姿はハリボテだったのだろうか。

では、ここでボンヘッファーの『現代信仰問答』を開きたい。まず彼は信じるか否かにかかわらず、人間の現実についてこう述べる。

問 あなたは、神のいましめを守っていますか

答 いいえ、守っていません。わたしは、神のいましめにたいして日々不従順であり、キリストを日々はずかしめています。

強烈な言葉である。「今日は少し神を信じていとか、先月はかなり神の言葉を守っていたとか、そんなものはない。そもそも人間は神に対して不従順なのだ!」と。そう考えれば弟子たちもまた、聞いているようで分からない、信じているようで信じられない日々を過ごしていたのかもしれない。

キリストは何度も十字架と復活について語った。しかし、弟子たちは何も理解していなかった。だから処刑の前夜に慌てて「そんなことはありえません!」とペテロは叫んだし、処刑の後に「もうイエスはこの世にいないよ」とトマスは悲痛にくれて家に引きこもった。

実は弟子たちの様子こそまさに、最初に挙げたクリスチャンたちの姿と同じではないだろうか? 弟子たちも僕たちも信仰を自分のはかりで捉える癖がある。無意識のうちに「これだけ祈れば立派なクリスチャンだ!」とか「奉仕をたくさんした自分、実は良い感じの信仰者では……」と。しかしキリストからすればどちらも吹けば飛ぶような信仰だし、そもそもそれを信仰と彼は呼ばなかっただろう!

では信じるとは無意味なことなのだろうか、クリスチャンとは架空の存在なのだろうか。

ここで十字架〝後〟のイエスに目を向けたい。彼は復活をすると真っ先に散っていった弟子たちのもとへ駆け寄り「安心しろ、わたしはここにいる」と語りかけた。この時、弟子たちは一切改心をしていない。むしろ皆、元の仕事や生活に戻り、イエスなど存在しなかったように生きていた。

普通に考えれば非常識も甚だしい。それまで救い主として仰いでいた人がいたのに、自分たちの理想と違ったと知れば途端に逃げ出した。僕がイエスであれば罵声のひと言でも浴びせたくなる。「どうしてお前たちは逃げたのだ!」「私を信じていたのだろう!?」

しかしイエスはそんな愚痴一つも漏らさず、ただありのままの姿の弟子たちを受け止めた。ここに「クリスチャン」の本当の意味がある。

ボンヘッファーは同じ書物の別の箇所でこのような言葉を残している。

 第一に、神は、あなたがそのことを知り・願うより前に、あなたにたいして何事かをなしたもうだのです。神は、あなたに、自由な恵みから、時間的生命を与えたもうとともに、また、自由な意志から、永遠の生命の約束を与えたもうのです。あなたは永遠に神のものです。

神とは、そしてキリストとは、僕たちが掴もうとするよりも先に、僕たちをすでに掴んでいる存在なのだという。

ではクリスチャンとは何か。それは「神のものとされている者」という意味だ。僕たちの生き方や過去を基準にするならば、誰一人キリストの前に立てないと思う。いや、思うじゃなくて、本当に立てない。聖職者であろうが、サラリーマンであろうが、主婦であろうが、中学生であろうが、皆等しく罪人だ。

そんなすべての人の傷や痛みを、イエスは十字架で背負った。だから彼は失敗に満ちた僕たちの人生も否定せず、むしろ理解しようとともに歩んでくれる。どんなことができるかではなく、どんなことができないか、立派な姿ではなく、弱く傷ついた僕たちのありのままにそっと手を差し伸べる。

「クリスチャン」とはどれほど自分の姿が汚れていようが、このイエスに寄りかかって生きていく存在だと思う。「自分の信仰は神の前にふさわしいのか」。そう考える前に覚えていてほしい、「すでにあなたは神のものとされている者だ」と。「人には言えない罪がある、隠したい生き方がある、もはや誰も私のことは救えない」。そう言い切る前に思い出してほしい、「すでにあなたは神のものとされている者だ」と。

大切なのはあの時の弟子たちが、そして今日の僕たちがどんな姿であっても、絶対にその手を離さない!と隣に居続けてくれる神の存在である。

そう思うと信仰とは実はとてもシンプルで、クリスチャンとは良い意味で能天気であっていいのだと思う。そんなことを考えている間に、すでに僕たちは神のものとされているのだから。

 ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。

【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(16) この世界をどんなレンズから覗くか(これから信じるあなたへ①) 福島慎太郎 2024年6月20日

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