日本クリスチャン・アカデミー 教派超え課題と可能性を模索 危機下で問い直す教会・礼拝・宣教 『コロナ後の教会の可能性』出版記念シンポジウム

日本クリスチャン・アカデミーとキリスト新聞社の共催による『コロナ後の教会の可能性』出版記念シンポジウム「危機下で問い直す教会・礼拝・宣教」が5月5日、日本基督教団東中野教会(東京都中野区)で開催され、対面とオンラインを合わせて約80人が参加した。

登壇者は同書の編著者である荒瀬牧彦(カンバーランド長老キリスト教会田園教会牧師)、浦上充(日本基督教団東中野教会牧師)、片岡義博(カトリック名古屋教区司祭)、渡邊さゆり(日本バプテスト同盟駒込平和教会牧師)、越川弘英(同志社大学キリスト教文化センター教員)の各氏。司会は本紙の松谷信司が務めた。

コロナ禍のただ中にあった2020年秋。日本クリスチャン・アカデミー関東活動センター運営委員会の席で、状況が刻々と変わりゆく中で、神学的な思索や議論の必要性を説いたある牧師のひと言が発端となり、共同研究プロジェクトが発足。各教会での実践を踏まえつつ、エキュメニカルな次元で取り組むべく、若手を中心に各教派から研究員が集められ、2021年4月から計7回の研究会が行われた。

それらの研究報告を中心に、雑誌「Ministry」と共同で行った実態調査の結果などを収録した同書の出版を記念し、改めて教会が問われた課題とこれからの可能性を模索しようと、今回のシンポジウムが企画された。

共同研究は終始オンラインで行われたため、研究員らが一堂に会するのも初めて。対面でのイベント参加は久々という参加者もおり、それぞれの現場からの報告とともに、2時間にわたる議論に耳を傾けた。

共同研究で座長を務めた荒瀬氏は会の冒頭、同書出版の意義について解説。1910年代にスペイン風邪が流行した当時、教会がほとんど記録を残さなかったことの反省を踏まえ、詳細なデータを収録したこと、学者だけではなく教会全体で議論し、新しい可能性へ踏み出すために、多岐にわたる視点から包括的に論じたことを強調した。

浦上氏は、コロナ禍で一時教会を閉じたことについて「必死の覚悟だった」と述べ、数年単位にわたり長期化することを想定し、すぐに「集まらない礼拝」のことを考えたと振り返った。東中野教会では、YouTubeによる礼拝配信をいち早く開始した。

「オンライン礼拝」が広く浸透したプロテスタント教会に対し、カトリック教会では「オンラインミサ」と呼ばず、あくまで「ミサのオンライン配信」であるとの立場を固持している。片岡氏は、オンライン配信の視聴が主日のミサに参加したことにはならないとの公式見解とともに、ミサに参加できなくてもキリストとの一致を求める「霊的聖体拝領」の考え方について紹介した。

渡邊氏は、自身が所属する教団のコロナ対応について、各個教会主義の立場をとるためそれぞれが主体的に考察できた反面、教会に「丸投げ」されたようにも思えたと述懐。自身が兼牧する教会では、オンライン配信用の機材も技術も持ち合わせていなかったため、継続して礼拝を続けたがコロナに感染した陽性者は1人もいなかったという。一方で、コロナに罹患しなかったことを「私たちは守られた」とする解釈については注意が必要だと慎重な姿勢を示し、「感染者の状況は教会により千差万別で、罹患の有無によりそれぞれの教会が思考と決断を迫られた。そのような状況下で、単に感染者数だけをもって神の守護について述べることは本質的ではない」と指摘した。

礼拝学を専門とする越川氏=写真下=はオンラインで参加し、コロナ禍が落ち着いてから自身の出席教会や大学の礼拝で賛美歌が解禁された際、「(自由に歌えることが)こんなに気持ちいいものか」と改めて気づかされたという体験に触れ、理論と同時に体験的にも礼拝を再考察するきっかけが与えられたと述べた。さらに、「世界の状況はいまだ問題が山積しており、今回学び得たことをいかに活かし、次なる災禍に備えるかという視点が教会にとって不可欠だろう」と提起した。

教会に集まれなくなった時の献金の集め方の工夫や、オンラインによる聖餐式の是非をめぐっても議論され、「神の前にふさわしい状態で参加していれば、礼拝はもちろん聖餐式についても問題ないと言えるのではないか」との声も聞かれた。

後半には会場からの質疑も交え、若年層にとってオンラインの有用性や、礼拝の定義そのものについて意見が交わされた。参加した信徒からは、「オンライン配信で教会の敷居が低くなっても、もし参加者が増えていないのであれば、礼拝そのものの内容が時代遅れになっている可能性もあるのではないか。神の国のリアリティを実感できる礼拝を、これからどうつくっていくかが重要になると思った」「戦争や迫害、国家による介入など、教会はたびたび礼拝を中断せざるを得ない状況に遭遇してきた。それを踏まえ今回の議論はさまざまな場面で用い、応用することが可能」などの感想が寄せられた。

コロナ禍をめぐっては感染のリスクから教会活動をいかに守るかという点に関心が偏りがちだが、危機の中でイエスの目がどこに向けられていたかという渡邊氏の問いかけに深く考えさせられたという参加者は、「コロナ禍によって社会からさらに疎外された人々に、どれだけ寄り添うことができたのか。その視点がなければキリスト教会とは言えないのかもしれない」「次善の策として始めたオンライン礼拝が、もともと集まれなかった人々の存在を想起させる機会となった。イエス様の目は本来、そこに注がれていたはず」と感想を述べた。

「2類」から「5類」へと移行し、収束の兆しが見えたともいわれるコロナ禍で、教会に残された宿題は少なくない。今月26日には、関西学院大阪梅田キャンパスでも異なる登壇者でのシンポジウムが予定されている。

 

 






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