7月29日「レリジョパス(宗教病質)」

 マラソンはスポーツで最も熾烈(しれつ)なスポーツの一つである。ボストンマラソンは世界で最も最高のランナーを魅了するものだ。勝利者は自動的に「現代の偉大なアスリート」の一人に位置づけられる。1980年の春、ロージー・ルィズは女性として初めて、ボストンマラソンの優勝者となった。彼女の頭上には月桂冠が載せられ、まぶしい輝きと喝采(かっさい)が彼女を包んだ。

 彼女はマラソン界では全く無名であった。強烈な偉業だった。彼女の最初のマラソンが偉大なボストン・マラソンであり、その結果がこの勝利だったのだ。でもそのすぐ後に、ある人が彼女の脚に注目した。彼女の弛(たる)んだ筋力、つまり脂肪でふくらんでる脚に注目した。色々な疑念が持ち上がった。そういえば、フルマラソン42・195㎞(26・2マイル)の沿道にいた誰一人、彼女の走る姿を見ていなかった。そして、事実が判明した。彼女が最後の一マイルにレースに飛び入りしたことが分かったのだ。

 彼女は直ぐに話題を集めた。彼女は嘘であることがいつか判明されるのを承知しながらも、どうして、このようなことをしたのだろうか。アスリートの業績は捏造(ねつぞう)できない。しかし彼女は偽証を決して認めようとはしなかった。彼女は「自分の能力を実証するためにもう一度マラソンを走る」と何度も言い張ったのだ。ただし、どういう訳か、彼女は一度も実証していない。人々は彼女の人格の手掛かりを探すために彼女にインタビューした。そして、インタビューした一人は「彼女は本当にボストンマラソンを完走し勝利したと信じている」と結論づけたのだ。

彼女は「サイコパス」ならぬ「ソシオパス(社会病質)」と分析された。彼女は善悪の判断の意識なしに、堂々と自然に嘘をつく。正しいことや間違ってることについての感覚なしに、受け容れられるものと、受け入れられない行動の感覚なしに、堂々と自然に嘘をつく。彼女は聡明で、正常で、インテリに見える。だが、彼女には社会行動に一貫性を与える道徳的なセンスがないのだ。

 ロージーの記事を読みながら、わたしはレースを走ることをしないで、ずる賢く調整しゴールしたい全ての知人を思い出す。彼らは日曜日に教会に微笑一杯で現れ、式典に参与する。だが、彼らはそこに自分の人生を向けることや、そこから自分の人生を引き出すこともしない。彼らは時折、公に愛の素晴らしい業を行い、公に慈しみの御業を行う。わたしたちは感銘し、驚くのだ。というのも、そんなことをする人だと、誰も思ってはいないからだ。「疑うべきは罰せず」という原理を適応したほうがよいのかも知れない。だが、それは無謀な行為として判明する。行動を結果的に生み出すことや行動に先行する個人的な関与が一切ないのだ。彼らはまことしやかで、説得力がある。辛い時を信じながら、孤独で、怒りを抱き心痛む時間を祈りながらも、彼らは結局はレースを走らない。彼らには宗教における「現実とは何か」を掴(つか)む感性がないのだ。そのような人に相応しいのは「ソシオパス(社会病質)」ならぬ「レリジョパス(宗教病質religiopath)」というレッテルだ。

あなたについて、わたしは知らない。
とにかく、わたしはゴールを目指して
  懸命に走っている。
そのために、持てる物を全て出し切っている。
いい加減な生き方は一切しない! 
注意深く、完璧な状態を維持している。
目指しているものすべてについて、
人に語って聞かせながら、
昼寝をしてしまって自分自身が
  それを見失うことなど、決してしないのだ。
―― コリントの信徒へ手紙(一)9章26~27節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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