祈りは、本質から言えば「問いに応えて語る」である。これが非常に重要なことである。キリスト教共同体は総じて一つのコンセンサスを持っている。それは「神の言葉がすべてに先立つ」ということである。「創造」「救い」「審き」「祝福」「恵み」「憐み」という一つ一つにおいて、神の言葉がすべてに先立つ。それなのに、わたしたちが実際に祈る時には、しばしば舞い上がる主体性に陶酔し、酔っぱらったように「神の御言葉」を脇に除き、「自分の言葉」を先行させる。その結果、「自分の言葉」がまず先に出てしまう、そのような祈りを行う。
礼拝をしている会衆の中にいる時、わたしたちは自分が先導する担当者ではないことに気づく。礼拝では、自分以外の誰かが祈りの場所を担う。自分以外の誰かが礼拝時間を設定する。自分以外の誰かが祈りの開始を告げる。こうしたこと全てが「神の御言葉が先立つ」流れで進む。まず神の御言葉が聖書と説教で聞かれる。あるいは、神の御言葉が洗礼と聖餐式において目で可視化される。このようなことを中心において、祈ることを学ぶのが、わたしたちの礼拝なのである。わたしたちはもちろんこの中心に足踏みすることはしない。その中心から放射線状に、祈りは広がり、わたしたちを外の世界へと導いて行く。礼拝という中心から出発するわたしたちは、自分の奥まった部屋へ、山へ、道路へ市場へと出て行く。ここでどうしても確認しなければならないことが一つある。「祈りは、神の言葉という中心から『外側へと』広がる」ということだ。逆に「祈りは、祈る個々人の内面へと収斂(しゅうれん)する」と考えてしまえば、わたしたちはイスラエルと教会の祈りの体験が目指したものと違う目的を持つことになる。
「はい、すべて今、わかりました」とマリアは言った。「わたしはしもべ。あなたはわたしの主
なんでもわたしに お語りください。
お言葉どおり、になりますように。」
―― ルカによる福音書1章38節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。