わたしは、長年、牧師としての自分の歩みの手がかりを聖書の中に探してきた。わたしは、何度も、何度も、豊かな宝物に出会ってきたが、どういう訳かヨナ書を見落としていた。聖書のもっとも挑発的で笑いをさそう3ページのヨナ書を完全に見落としていた。ヨナの物語は牧師の召命という体験を鮮明に喚起してくれる。その物語はまた別の物語を生む。そして、語り手も物語を伝え合う。わたしが仲間にヨナの物語を話す。彼ら自身の体験を物語るのを、わたしが聞き、わたしも自分の体験をいくつか物語る。そうして、その物語は、あるべき姿や隠喩を浮かび上がらせて、牧師の仕事のスピリチュアリティーを明確に示してくれる。スタンレイ・ハワーワースが『ヴィジョンと美徳』を次のように述べるのは合点がいく。彼はこのように述べる。「自分が自分の生き方を変えたいと思うならば、自分の意思を鍛錬(たんれん)するよりも、自分の実現したい姿を心に描く方が、はるかに重要である」と。わたしたちの「意志の力」とは評判の悪いエンジンのようなものである。それは確かに、内面的な力によって、バチバチと音を立てて動く。他方で「正しいイメージ」というものは、静かに冷徹に起動し、現実世界にわたしたちを引き込んで行く。その現実こそが、エネルギーそのものである。
「ヨナ書」という寓話は、祈りが中心となっている譬(たと)え話である。譬え話と祈りで物語る方法とは、実に聖書的なものである。過剰に宗教的になった社会では、多くの人々の生活は単なる習慣に流されてしまう。霊的感覚が鈍麻している。そのような人々の奥まで届く鋭い真理の認識をもたらすのが「譬え話と祈り」という聖書的な手段である。
イエスは尋ねた。「あなたがたはこれらのことが全てを理解し始めているのか?」弟子たちは「はい」と答えた。そこでイエスは言われた。「それでは、神の国を十分に訓練された学生は、古いものでも新しいものでも、必要な時に、必要なものを手に入れることができる雑貨屋の店主に似ている。」と言った
―― マタイによる福音書13章51節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。