次のいくつかは「牧師」について述べる。「牧師」という言葉を、クリスチャンであれば、どんな職業に言い換えても構わない。
多忙は霊的な病気である。一つのことをしている時に、慌てて別なことへと思いが移る時、霊的な病気になっている。そうした時には、「神がこの役割のためにわたしを召し出されたのだ」という召命感に基づいて自分を統合することが不可能になり、「神の恵みが全てに先立つ」という確信も失ってしまう。そうした場合には、人々の間で心を通い合わせることが求められる。牧師はその求めに応え、語り合い、祈らなければならない。そのためには、「機能的」とか「技術的」とか「非人間的」という外部から課せられることがない、静かな余暇の時間をたっぷり取る必要がある。
わたしは大地に足をつけて、静かな心を育んできた。母に抱かれて安らいでいる
赤子の思いさながらに、わが魂は満ち足りている。
―― 詩編131編2節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。