「知恵のある人」ほど愚かな人はいない。【聖書からよもやま話357】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エレミヤ書の8章です。よろしくどうぞ。

エレミヤ書 8章8節

どうして、あなたがたは、
「私たちは知恵ある者、
私たちには主の律法がある」と言えるのか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

人は自分を「知恵ある者」と思いたがるものです。そして人類はさらに自分たちを「知恵ある者」と思いたがるものです。現代社会で僕たちは、自分たちのことを「歴史上最も進んだ時代を生きている。歴史上最も知恵を持って生きている」とどこかで思っていないでしょうか。科学も発展し、人権意識も進展し、だから現代を生きる我々は過去よりも優れている、と思っていないでしょうか。「私たちは知恵ある者」と言ってはいないでしょうか。

そしてまた、自分たちを「ものの善悪を裁く権利があり、そうする義務のある者」と思ってはいないでしょうか。近頃は誰かの不祥事や犯罪が報道されると、「死刑にすべきだ」とか「業界から追放すべきだ」とか「一生かけて償うべきだ」とか、様々な意見がSNSやニュースコメントに書き込まれ、毎日のように盛り上がります。つまり、いわば「みんなが裁判官」な状態になっています。「私たちの意見こそが、いや私の意見こそが律法である」と、多くの人がそう叫んでいるように見えます。
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さらにまた、クリスチャンも「私たちには主の律法がある」とばかりに、時として過ちを犯した人を「聖書でぶん殴る」ようなことをしてしまいます。もちろん物理的に聖書で殴るわけではありません。しかし聖書に書いてあることを後ろ盾に、人を裁き、人を責めてしまいます。「私たちには聖書がある」と、聖書を武器に争ってしまうようなことが、残念ながらクリスチャン同士の中でも時々見られます。たしかに聖書に書いてあることは正しい、しかしそれを用いて人を裁くのは神様であって、人間ではありません。クリスチャンであってもそれは同じことです。クリスチャンになれば聖書で人を裁いていい、なんてそれこそ聖書のどこにも書いてありません。

結局は「私は知恵ある者」という態度が、これらの多くの罪を生み出すのかと思います。ソクラテスも学究の基本は「無知の知」であると言いました。「私は知っている」という態度からは学びは生まれませんし、学びがなければ前進も生まれません。「私は知恵のない者です」と神様の前に告白するところから、神様による知恵の注入作業が始まるのかと思います。

大抵のことについては、持っていないものよりも持っているものを数える方が幸せに近づくものです。財産も友人も食事も幸せも、与えられていないものに意識を向けるより、与えられているものに意識を向けた方が良いものです。しかし知恵については、持っているものよりも、持っていないものに意識を向けた方が、幸せに近づくように思います。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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