愛情表現の今むかし【聖書からよもやま話486】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、雅歌の6章です。よろしくどうぞ。

 

雅歌6章 6章5〜6節

あなたの髪は、ギルアデから下って来るやぎの群れのようだ。
歯は、洗い場から上って来た雌羊の群れのよう。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

雅歌というのは聖書のラブソング集のようなもので、愛する男女がお互いに慕い合う歌が集められています。そこには2500年前の美意識が現れていたりします。今日の箇所は愛する女性を男性が褒めているのですけれど、「髪がやぎの群れのようで、歯は羊の群れのようだ」って、現代の感覚で言ったら「え?なにそれ褒めてるの?」って思っちゃいますよね。人によってはこんなこと言われたら怒ってしまうかもしれません。他にもこの雅歌には「ほっぺがザクロのようだ」とか「目が鳩のようだ」とか、現代の感覚では「え?」となるような表現がたくさん出てきます。

人間の美意識や価値観というのは時代によって変わります。平安時代の「美人」が、現代の感覚の「美人」とはかなり違ったらしいというのは有名な話で、日本では「世界三大美女」と言われる小野小町も、現代に現れたらいわゆる「美人」なのかどうかはかなり疑わしいと言われています。

美しさだけでなく、好ましいとされる生き方も変わります。たとえば20年前の若者に「君は個性的だね」と言えばそれはポジティブな意味でしたが、現代の若者に同じことを言ったら「え?それは褒めてるんですか?」と思われてしまうそうです。ひと昔前には「まじめ=なんかカッコ悪い」みたいなイメージがありましたが、今ではそんなイメージは随分となくなってきています。

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UnsplashBruno Martinsが撮影した写真

先日、話題になった『不適切にも程がある』というドラマを見ましたが、昭和と令和で人の価値観はずいぶん変わりました。令和では「暴言」と解釈される言葉や行為が昭和では「愛情表現」であったりしました。令和はある意味で昭和より素直になったと言えるかもしれません。昭和の人は家族に対して直接的に「愛してる」なんてなかなか言えず、曲がりくねった愛情表現をしていたものですが、令和では少なくともその頃よりはみんな素直に家族に「愛してる」と言えるようになりました。昭和から令和、ざっと50年ほどの間に、人々の愛情表現はこんなにも変わったんです。

まして旧約聖書の時代から現代までざっと2500年。50年の50倍。つまり昭和から令和の50倍の年月です。そりゃ愛情表現が当時と今で大きく違っていても無理はありません。

しかし、人間の愛情表現が時代によって変遷したとしても、神様の愛情表現は2500年前から変わりません。神様は2500年前から聖書を通して、同じ言葉を人間に発し続けています。ただひたすらに、シンプルに「私はあなたを愛している」と。そしてその言葉は人間にとっても変わりません。時代がいくら変わっても「愛している」というシンプルな表現は必ず相手に伝わります。「髪がやぎで、歯がひつじ」なんて言っても時代が変われば伝わりませんが、「愛している」は時代を問わず伝わります。

愛はまわりくどくせず、シンプルにまっすぐ伝えるのが良いのかと思います。それが時代に左右されない愛ということです。

 

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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