聖書がいつも提示する家族像がある。それはノーマン・ロックウェルが描き出した「感謝祭の七面鳥を囲む家族」のようなものではない。贖(あがな)いと救済を必要としている、崩れた人間関係ばかりの家族像である。「ヨクナパターファ郡」を舞台にしたウイリアム・フォークナ―の筋書きのように。少なくとも、これは「キリスト教的な家族像」が示すべき「優しさ」と「明るさ」に欠けているという理由で誰一人も罪悪感を抱く必要はないのである。模範的な「調和のとれた家族像」というものは聖書には見当たらない。「この事実について、わたしは繰り返し聖霊に感謝している。」だから、わたしたちは「そこにある新しい共同体の約束」に注意を払うことが出来る。それは信仰の家族・キリストにある家族として人生の日々を経験する新しい共同体である。そうした共同体の一員として共に生きる人生の日々は血縁によって生まれるのではない。「少なくとも、わたしたちの血縁によって生まれるのではない。」それは恵みによって生み出されるものである。わたしたちの連帯は、わたしたちがよい人間である点において生まれるものではない。わたしたちが赦(ゆる)されているために、わたしたちの連帯が生まれるのだ。
キリストが来て、あなたたち「よそ者」に平和を説き、わたしたち「身内の者」に平和を説いた。キリストはわたしたちを平等に扱ってくださった。それで、わたしたちは対等になった。キリストによって、わたしたちは共に等しく聖霊を共有し、等しく父なる神につながることとなった。
―― エフェソの信徒への手紙2章17~18節