4月28日「赦し」


 「赦(ゆる)し」という言葉は、ジャーナリズムの表現や一般の不注意な使用方法で、まるで水で薄めらたようになっている。「赦し」という言葉はしばしば「まあ、もういいさ。気にしないことにするよ。だが、もう二度とするなよ。」という程度の意味しか持たない。それは言葉の上では、「肩をすくめる」という身振りを言葉の上で行うこと、つまり「赦す」という言葉の意味になっている。だから、わたしたちは、今、新約聖書に幾度も立ち返り、「赦し」という言葉を刷新させる必要がある。赦しの活き活きとした強さと力と、そして豊かな多様性を発見する必要がある。「赦し」は人が取り組める最も創造的な活動であることを知る必要がある。「赦し」ほど新しい命を湧き起こすものはないことを認識することが大切である。「赦し」を行う立場にある親は、まるで「神のような立場」に立っていると信じることも必要である。

平静でいなさい。二位でいることに満足しなさい。誰かに攻撃されても、直ぐに赦せ。主があなたがたを赦したように直ぐ、完全に赦しなさい。何がなくとも、愛を身に着けよ。愛こそ、あなたの基本的な装いである。愛こそ、どんな目的にも遭った装いとなる。決してそれを手放してはいけない。
―― コロサイの信徒への手紙3章13B~14節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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