第6章 牧師と教会のカンケイ 行き先も知らずに出発する 細川勝利 【ジセダイの牧師と信徒への手紙】

「お見合い」はほどほどに

牧師を迎える教会にとって、次に来る牧師がどんな人物であるか知りたいと思うのは当然である。また、牧師としても教会はどのような教会であるかを知りたい。だから、主の導きかどうかをそれぞれが判断する前に、いわゆる「お見合い」をするのが普通である。

これ自体まったく無用だとは思わない。ただ、必要以上に、自分が納得するまで知りたいと願うことは必要ないと言いたい。それは伝道者の側だけでなく、招く教会側にとっても同じである。互いに知らない部分があってこそ、神が召してくださったとも、神が遣わしてくださったとも言えるのである。もし、相互に十分知り、納得したから招き、またそれに応じるとすれば、互いの納得で牧師を招き、それに応えたことになるではないか。

もちろん、これは任命制と招聘制によって事情はかなり違うだろう。任命制だと、伝道者や教会が最終的に判断するのではなく、任命する機関がするから、伝道者自身も教会も相互にあまり知らないことは異例なことではない。聞くところでは、ある場合は、年に1度行われる年会で発表されるので、いつも年会前にはそれぞれ、転居の心積もりをするともいう。

では、実際に招聘制で、教会も牧師も互いにそれぞれをよく知ってから牧師が赴任する場合と、任命制で教会と牧師共々に知らずに赴任する場合、どちらが牧師と教会の関係がいいかというと、一概には言えないのである。

だから、伝道者にとっては行き先のことは知らなくてもいいのである。どんなに知っていると思っても、実際に奉仕して初めて知ることができるのである。それは、結婚前に、長い間付き合って十分互いに知ったと思っても、結婚して初めて互いの真実を知るのと同じである。

アブラハムが「自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました」(ヘブライ人への手紙11章8節)とあるように、我々伝道者もかくありたいものである。

Unsplashのhoch3mediaが撮影した写真

批判に強くなれ

批判精神を養い、遠慮なく人を批判せよということではない。また、人から批判されても、それで落ち込むことなく、その批判を無視したり、その批判に反論せよと言っているのでもない。

実はその反対のことを言っている。人に批判されることに反撥したりしないで、心を開いてよく聞くことを言っているのである。教会員が伝道者を批判するには、恐ろしいほど勇気がいることだし、本当に教会と伝道者を愛していなければ批判などできない。

伝道者を批判しないほうが、どれほど平和的な教会生活を送れるかしれない。そのような中で批判してくれることに敬意を払い、感謝して受け入れること、これが批判に強くなることである。

我々伝道者、それは教会も、いや人間すべてだが批判に弱い。しかし、批判に反発したり、批判する人を「愛がない」と言っているなら、真の交わりはできず、互いの成長はないし、日々の改革は不可能である。だから、伝道者自らが説教をはじめ何についても教会員からの批判を歓迎することである。

説教に関しても、教会員の中からいつもモニターの役割を担ってもらい、説教についての批判を聞くのも一つの方法ではないかと思う。毎主日、全員にしてもらうとか、毎週、2~3名交代でするとか、特定の何人かにしてもらうなど、方法はそれぞれあるだろう。とにかく、伝道者が批判されることを喜ぶこと、これが批判に強くなることである。

(つづく)

ほそかわ・しょうり 1944年香川県生まれ。東京で浪人中、63年にキリスト者学生会(KGK)のクリスマスで信仰に導かれる。聖書神学舎卒後、72年から日本福音キリスト教会連合(JECA)浜田山キリスト教会、北栄キリスト教会、那珂湊(なかみなと)キリスト教会、緑が丘福音教会、糸井福音教会、日本長老教会辰口キリスト教会、パリ、ウィーン、ブリュッセル、各日本語教会で牧会。著書に『落ちこぼれ牧師、奮闘す!』(PHP出版)、『人生にビューティフル・ショット』『21世紀をになうキリスト者へ』(いのちのことば社)など。

【ジセダイの牧師と信徒への手紙】 第5章 赴任先は条件次第? 信仰によって現実を克服する 細川勝利 2014年5月10日

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