アメリカで最も普及されている祈りについての誤解の一つは、祈りはプライベートなものということである。聖書的にかつ厳密に換言すれば、プライベートな祈りはあり得ない。「プライベート」の語源は盗みを意味する。それは盗むことである。わたしたちが祈りを私物化すると、全てに属する公的な通貨を横領することになる。時間や空間の意味で「身近にある」王国の広く包括的な願望や意識なしに、わたしたちが祈りをする時、神が完成しようとしている社会的な現実を貧しくしてしまう。
祈りにおける独りとは、プライバシーを意味するのではない。プライバシーと独りの違いは極めて大きい。プライバシーとは自己を干渉されることから守る試みである。独りとは相手の話をより深く聴き、相手を意識し、相手に仕えるために、暫くの間、相手との付き合いを離れることである。プライバシーとは他人に迷惑をかけないように、彼らから遠ざかることである。独りとは、群衆から離れて、多くの人々の賛美で御座につく神の静かで、小さな御声で教えられることである。プライベートな祈りは利己的で薄っぺらい。独りで行う祈りとは多くの声が存在する数世紀にわたる共同体に加入することである。わたしたちは天使や大天使たちや天にいる全ての仲間たちと共に賛美する「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主なる全能の神」
朝早くまだ暗い時に、イエスは起きていつもの所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間たちはイエスの後を追った。彼らはイエスを見つけると「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「他の村に行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのために、わたしは出てきたのである」
― マルコによる福音書1章35~38節