「ある悲惨」:キルケゴールは、「絶望」をどのように捉えているか
「自己」と「絶望」の関係に焦点を当てつつ、「生きることの意味」の問題を可能な限り論じ尽くすというのが、キルケゴールの『死に至る病』の構想に他なりませんでした。
「キリスト教は、その代わり、ふつうの人間にはそんなものがあるなどとは思いも及ばない、ある悲惨を見つけ出してしまった。この悲惨こそが、死に至る病なのである……。」
思索者としてのキルケゴールにとって、「死に至る病」とは人間を襲う精神の病であるところの「絶望」そのものを意味しています。今回の記事では、この点をめぐって考えてみることにしたいと思います。
「死に至る病とは絶望のことである」:キルケゴールの主張とは
『死に至る病』の本論の前に置かれている「緒言」において、キルケゴールは次のように言っています。
キルケゴールの言葉:
「だから、キリスト教的な理解では、死さえも『死に至る病』ではない。ましてや、困窮、悲惨、不運、災厄、苦痛、煩悶、悲哀、落胆といった、地上的、時間的な意味で苦悩と呼ばれるものは、どれも『死に至る病』ではない。[…]キリスト教は、キリスト者に、死を含む一切の地上的、この世的なものについて、これほどまでに超然と考えるよう教えてきたのだ。[…]ところが、キリスト教は、その代わり、ふつうの人間にはそんなものがあるなどとは思いも及ばない、ある悲惨を見つけ出してしまった。この悲惨こそが、死に至る病なのである……。」
事態を二点に分けて整理してみます。
① 上に引用した箇所において、キルケゴールは、キリスト者、すなわち「信仰=無限性を先取するところの内的確信」を持つ人間にとっては、死すらも恐ろしいものではありえないという主張を述べています。すなわち、「絶対他者であるところの神が存在し、私たちの一人一人を愛している」と信じているキリスト者にとって、彼あるいは彼女を「神の愛」から引き離すことのできるものは何もないのであってみれば、その人は死ぬことをも、また、地上的なあらゆる不幸をも恐れるには及ばないのではないか。ただし、キルケゴールは、現実にはこのような心の強さを持って生きることのできる人間はほとんど存在しないであろうということ、また、キルケゴール自身もまたそのような意味において「キリスト者」と自任することはできないということを強く意識しながらこの書を書いており、そのため、『死に至る病』という著書自体が「アンチ・クリマクス」なる偽名を用いて書かれていることには注意しておく必要がありそうです(上に述べられている主張はいわば、意図的に「原理主義的」な誇張に基づいて語られていると言うこともできそうである)。
② ただし、上のように主張したキルケゴールは同時に、死そのものにも勝る悲惨を見出していたのであって、その悲惨こそが「死に至る病」であるところの「絶望」に他なりませんでした。
人間の心は、襲いかかってくる様々な悲惨に立ち向かうことができる。しかしながら、その心そのものが致命的な病によって機能不全に陥ってしまったならば、その人間はまさしく「生きることの意味」そのものをも喪失してしまうことになるのではないか。従って、「絶望」こそはまさしく人間存在を襲うことのできる最大の悲惨に他ならないのではないだろうか。かくして、この「絶望」なる病の構造と論理を徹底的に探り出すことが、『死に至る病』におけるキルケゴールの課題となります。
「精神の健康」:哲学の営みは、何を探し求め続けてきたのか
問い:
人間は果たして、どのようにして十全な「精神の健康」なるものに到達することができるのだろうか?
『死に至る病』におけるキルケゴールの功績は何よりもまず、「絶望」の問題を無視することのできない問題として名指し、提起したことにあると言えるのではないか。キルケゴールは、自分自身がひたすらに不安に悩まされ、内面へと閉じこもり、心の病によって苦しめられた人でした。だからこそ彼にとっては、「『信仰』=『精神の健康』そのものを実現するところの内的確信」に到達するという課題が、どこまでも切実かつリアルなものとして感じられていたといえます。行き着くべきところに行き着いて、心の平安を得られるような「内的確信」の地点にたどり着くまでは、人間はどこまでも「不安」と「絶望」に苦しみ続けざるをえないのではないか。どこまでも生々しく、個々の単独の人間にとっては深刻なものであらざるをえないこの問題を、哲学の営みそのものが総力を挙げて究明すべき問題としてはじめて明示的に名指したという意味において、『死に至る病』はまさしく『告白』や『パンセ』と並ぶ思索のモニュメントたりえていると言うこともできるのかもしれません。
「絶望」とは人間の心を飲み込んでしまおうとする底なしの深淵であり、生きることそのものを放棄させてしまいかねない「滅びの穴」なのであってみれば、この問題の解明には多大な困難が伴うことは疑いえません。しかしながら、人間存在にとっての真なる「精神の健康」、死ぬことなく命の内にとどまり続けることのできる心の平安のあり方もまた、この「絶望」の問題に取り組むことを通して逆に照射されてくると見ることもできるのではないだろうか。
「この死んでいる生と言うべきか、それとも生きている死と言うべきか。」このように『告白』において語っているアウグスティヌスもまた、「絶望」の問題にどこまでも苦しめられながらも、紆余曲折を経て心の平安についにたどり着くことのできた経験を「回心」の出来事として書き記しています。生きている限りは「不安」や「絶望」から完全に解き放たれることはできないとしても、人間には、「この地点に踏みとどまり続けるならば『希望』が失われることはない」という内的確信の構造を見定めることは可能なのではないか。生きることから苦悩することを取り除くことはできないとしても、「それでもわたしは『善く生きる』ことを意志する」という意志に踏みとどまることのできる境地は、おそらくは存在する。この境地こそ、その言葉の真の意味における「精神の健康」に他ならないのであって、哲学の営みは二千年以上にわたって、この境地をこそ探し求め続けてきたのではないだろうか。その意味からすると、キルケゴールの『死に至る病』もまたこの長い戦いの歴史の重要な一ページをなす著作であることは間違いないのではないかと思われます。
おわりに
信仰の書においては、「恐れるな」あるいは「心を騒がせるな」という言葉が繰り返し語られていますが、思索の営みそのものもまた、「不安」と「絶望」に対する徹底的な抵抗の試みによって成り立っていると見ることもできるのかもしれません。私たちとしては引き続きキルケゴールの言葉に耳を傾けつつ、「絶望」の問題に取り組んでみることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]
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