【断片から見た世界】『告白』を読む 「生き延びるための苦闘、あるいは『〈可能性〉への目覚め』」

「一つの危険を無限に畏れるとき……。」:『夜と霧』を読む

キルケゴールによるならば、「死に至る病」であるところの「絶望」こそは、人間にとって最も恐るべきものに他なりませんでした。

「キリスト者だけが『死に至る病』の意味するところを知っている。キリスト者は、キリスト者として、自然のままの人間が知る由もない勇気を得たーよりいっそう恐ろしいものに対する畏れ[神に対する畏れ:引用者注]を学ぶことで、この勇気を得たのだ。一つの危険を無限に畏れるとき、人間にとって他の危険は存在しないも同然なのである。そして、キリスト者が学び知ったその恐るべきものこそが『死に至る病』なのである……。」

ところで、「真に神を畏れる時には、もはや他のいかなるものも恐れるには及ばなくなる」という思想は、二十世紀の惨禍をくぐり抜けたある心理学者の思想とも、深いところで共鳴しているといえます。今回の記事では、V・E・フランクルの『夜と霧』の言葉に耳を傾けつつ、「絶望」を克服する精神のあり方について考えてみることにします。

「もはやこの世には神よりほかに恐れるものはない」:強制収容所を生き残った心理学者は、苦悩の果てに何を思ったのか

ユダヤ人としてナチス・ドイツによる強制収容所での迫害を自ら経験し、苦しみの果てに生き残ることのできたフランクルは、その経験を書き記した著書『夜と霧』の最終部分において、次のように言っています。

フランクルの言葉:
「そしていつか、解放された人びとが強制収容所のすべての体験を振り返り、奇妙な感覚に襲われる日がやってくる。収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからないのだ。そして、人生には、すべてが素晴らしい夢のように思われる一日(もちろん自由な一日だ)があるように、収容所で体験したすべてがただの悪夢以上のなにかだと思える日も、いつかは訪れるのだろう。ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ……。

ここでは、強制収容所での生活から解放された後の人間の心のあり方に関して、非常に重要な証言がなされていると言えるのではないだろうか。事態を二点に分けて整理してみます。

ナチスによる強制収容所での迫害の経験は、人間が経験しうる悲惨の中でも最もむごたらしいものの一つであったことを、フランクルはこの本の中で証言しています。「アウシュヴィッツ」という名前は今日でもよく知られていますが、『夜と霧』はそのアウシュヴィッツをも目撃した人間の言葉として、強制収容所での生活が人間の心に与える影響を克明に記録しています。ここではその細部に立ち入ることはできませんが、この本の記述には、「苦しみの当事者性」という論点を改めて強く思い起こさせずにはおかないものがあることは確かです(苦しみなるものの内にはその本質からして、その苦しみを経験した当人にしか理解できないものが、その苦しみに関して「外から客観的に」語ることを拒むものが存在している)。

② そして、上に引用した箇所でフランクルは、その最もむごたらしい経験をくぐり抜けた人間は、もはや神よりほかに畏れるものがなくなるという感慨について言及することで、本全体を閉じています。「私たちが生きているこの現実においてはいかなる悲惨なことも起こりうる」ということを身をもって知った後に来るのは、もはや何物をも恐れないという心境ではなく、いかなる思惑をも可能性をも超えて人間の運命を司っているところの「神」をこそ畏れるという心のあり方に他ならない。ここで語られている思想には、『死に至る病』におけるキルケゴールの思考と深く重なり合うものを見ることもできるのではないだろうか。

「〈可能性〉への目覚め」:キルケゴールとフランクル

論点:
人間が「死に至る病」そのものであるところの「絶望」から真に解き放たれるためには、「〈可能性〉への目覚め」なる出来事をくぐり抜けることが必要なのではないか?

絶えることのない「不安」に苦しめられ続けていたキルケゴールにとっては、ありとあらゆる災厄が、あらゆる瞬間に起こりうるということが実存の危機そのものを形作っていたと言えるのではないだろうか。人間とは、常に「可能性に関わる存在」を引き受けざるをえないような存在者に他ならないのであって、だからこそ、彼あるいは彼女は破滅の可能性に常にさらされ続けている。キルケゴールが命を賭けて「信仰=揺らぐことのない内的確信」の境地を追い求めたのは、こうした「可能性をめぐる危機」からの救いを求めてのことであったと見ることもできそうです。

これとは対照的に、心理学者であったフランクルを襲ったのはまずもって、強制収容所での迫害という現実の苦境そのものに他なりませんでした。しかしながら、彼が『夜と霧』において語っているように、この経験においても最も苦しかったのは、「この苦しみはいつ終わるのか?」という問いに対する答えが見つからなかったこと、すなわち、「破滅から救われる」という可能性がもはや見出されないように思われたことだったようです。この意味からすると、フランクルが強制収容所において戦わなければならなかったのもまた、キルケゴールと同じような「可能性をめぐる、死に物狂いの戦い」でもあったと見ることもできるのではないか。

「神を畏れる」というのは究極的には、神にとっては幸運も災厄も含めてあらゆることが可能であると覚悟すること、人間がどこまでも弱さと有限性とを抱えもつ存在であらざるをえないことを深く認識した上で、それでもその人間を危機から救い出すことのできる絶対他者を信頼することに他ならないのではないか。「〈可能性〉に目覚める」とは、生においてはいかなる悲惨も苦しみも人間存在を襲ってくることがありうると知ること、その上で、それでも「幸福」に生きる可能性に賭けることができるようになってゆくことを意味するのではないか。「畏れ」という実存の態度は、いかなる破滅も災厄も自分自身と無縁なものではありえないことを認識することから生起する。しかしながら逆説的なことに、人間にとっての真の精神の健康は、この「畏れ」の態度を身につけることによってこそ獲得されるのではないだろうか。可能性の不安という深淵に一度沈み込み、その後にそこから浮かび上がってきた人間こそがもはや揺らぐことのない内的確信に従って生きることができるのだとしたら、どうだろうか。フランクルとキルケゴールの思考を重ね合わせてみることで、私たちは、「可能性」のカテゴリーを根底的な仕方で改めて検討する機会を見出すことになると言えるのかもしれません。

おわりに

信仰の書にはまさしく「主を畏れることは知恵の初め」という言葉がありますが、「〈可能性〉への目覚め」なる契機を掘り下げることは、2023年現在の哲学にとっても不可欠の課題であると考えることもできるのではないだろうか。私たちとしてはもう少し『夜と霧』の言葉に耳を傾けつつ、問題を検討してみることにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

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