共に生きていくという感覚 門田 純 【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】

東京から長崎にやってきて、カルチャーショックを覚えたのは接客だった。お茶の入っていないポットを出されて若い店員さんに「入ってないんですけど」と言うと、ムッとした様子で代わりのポットを出された。免許の更新で警察署に行った時にも、警察官が列に並んでいる人たちに文字通り指図していて驚いた。バスの運転手もそうだ。どこか上からの態度が感じられるし、なんと両替を用意しているのは乗客の方なのだ。

東京ならクレームものではないだろうか。理由をいろいろと考えてみた。「地方で競合が少ないから」とか「そもそも賃金が安いからモチベーションがあがらない」など。しかし、最近とても単純な理由に気がついた。なんのことはない、「住んでいる人間が少ない」のである。

印象的な出来事がある。近くのサウナで地元のおじさんたちと仲良くなり、そのうちの1人が食事に誘ってくれた。2軒目に入ったのは、人生で初めてのスナックだった。「ママ」と呼ばれる方はゆうに80歳を超えており、他の従業員はだいたい40代以上だった。常連のおじいちゃんは「ここは夜の介護施設やけん」と冗談を飛ばしていたが、それはあながち間違いではなかった。お互いのことを驚くほど共有しており、顔を見せない人や調子が悪い人がいれば互いにそれとなく気遣っているのである。

UnsplashFlash Dantzが撮影した写真

サウナ友だちが「この人、牧師なんだよ」と自慢(?)すると、1人のお母さんに「へー、どちらの教会なんですか?」と尋ねられ、正直に「あそこのナザレン教会です」と答えると、「ああ! 先日うちの娘がお世話になりました!」と言われた。なんと、先週行われた子どもクリスマス会に来ていた子どもの親御さんだったのである。

地方と都市の最も顕著な違いは「人口」である。人口が少なければ顔をあわせる確率が高い。何度か顔を合わせていればあいさつをするようになり、顔なじみになってさらに話すようになれば、少しずつお互いのことを共有するようになる。路面電車に乗っていても、なじみのスーパーに行ってもただ街ですれ違うにしても、どこか「共に生きていく」という潜在的な共同体意識が息づいている。だからこそ地域に溶け込んでいくと、旬の野菜や果物は購入するよりも、いただくことの方が増えてくる。これが行き過ぎれば「ムラ社会」となり、逆にまったくなければ「無縁社会」となっていくのだろう。

都会に慣れた自分がすっかり「消費者根性」に染まっていたことに気がつく。金さえ払えば相応のサービスが受けられると当然思っている。もちろん地方だって資本主義経済で回っているのだから、その感覚がまったくないわけではない。しかし、それ以前に「共に生きていく」という感覚が前提にあるのだ。「本当は自分でしなければならないことを、お金を払って人にお願いしている」という、どちらかといえば申し訳ない感覚なのである。

そう理解すると、冒頭のような場面も今では当然のように思う。だって「よく知らないおじさんが、茶が入っていないと文句を言っているに過ぎない」のだから。金を払って人にものを頼んでいる人が偉そうにする意味が分からない。もしこれが常連だったり、知り合いでもあれば変わってくる。

都会では知りもしない人間にニコニコしていることが良いサービスとされる。よく考えれば、とても不自然なことだ。共に生きていくことは、キリスト教共同体のテーマである。共に生きていくからこそ赦し合い、愛し合うから共に生きて行ける。地方の社会であっても、確実に共同体性は失われつつある。だからこそ、教会が地域で果たすべき役割がここにある。いわんや都会においてをや。

 かどた・じゅん 1983年神奈川県生まれ。上智大学経済学部卒業、社会福祉法人カリヨン子どもセンター勤務を経て日本ナザレン神学校へ。現在、日本ナザレン教団 長崎教会牧師(7年目)。趣味は愛犬とお散歩、夫婦と犬2匹猫2匹で全国を旅するのが夢。

【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】 中庭の小さな生態系 門田 純 2023年10月1日

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