Q.教会の葬儀でも、「天国でまた会える」という話をよく耳にしますが、キリスト教の教えなのでしょうか?(30代・男性)
親しい方や家族が亡くなった時に、「天国(来世)でまた会いたい」と思うのは、ごく自然なことです。死ぬことによって永遠に別れるようなことがあってほしくない、との思いが込められています。クリスチャンの方がこの言葉を使う時、自分自身もそして亡くなった人も天国に行って、そこで再び幸せに一緒に暮らしたいとの願いがあります。一般の方がこの言葉を使う時は、キリスト教とは違う「あの世」という意味で使われています。
日本人にとって死後の世界は、「この世」に対する「あの世」であり、死んだ人がみんな行くところでした。そこでは家族も友人も一緒であり、関係は変わらないものと考えてきました。この考えは、仏教以前からすでにあり、仏教を受け入れても変わらない来世観です。ただ表現の仕方が、「あの世」から「天国」になっただけのことです。
仏教が入って以後、六道輪廻の来世観が教えられ、地獄界から天界までのどこかの世界に行くと教えられても、日本人はその考えを受け入れることなく、相変わらず死後も人間として暮らすこと、しかもこの世の人間関係を変えることなく暮らすことを強く願ってきました。
仏教の教えによれば、私たちは死後の世界において、人間に生まれ変わる保証はなく、しかも家族や友だちとも離れることが十分起こりえることです。ですから日本では、仏教は受け入れても来世の教えのことは拒んできたのです。
教会において、「また天国で会いましょう」とか、「天国で安らかにお眠りください」とか言っても、厳密な意味で確信しているのではなく、私たちの願望が込められた言葉です。実際には「クリスチャンだから」「教会に行っているから」天国に行けるとは限りません。「天国でまた会える」という言い方は、実に曖昧で角の立たない、耳触りのよい言葉なのです。
仏教的でもなくキリスト教的でもなく、人間的でかつ日本的な言葉です。
*本稿は既刊シリーズには未収録のQ&Aです。
かつもと・まさみ 1950年熊本県生まれ。聖契神学校卒業後、立正大学仏教学部(日蓮宗)を卒業。あわせて僧階課程を修了。その後、仏教大学で仏教学(浄土宗)を専攻。神道や民俗宗教の学びの必要を覚えて、神道宗教学会に加入。郷里熊本で牧会の後、1990年から千葉県流山市で開拓伝道を開始した。後に日本聖契キリスト教団に加入し、聖契神学校講師(比較宗教·日本教会史)を担当。著書に『日本人の生活習慣とキリスト教』『日本の宗教行事にどう対応するか』(いずれもいのちのことば社)など。