「攻撃は最大の防御」についての大きな誤解【聖書からよもやま話398】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、イザヤ書の33章です。よろしくどうぞ。

イザヤ書 33章20節

わざわいだ。
自分は踏みにじられなかったのに、
人を踏みにじり、
裏切られなかったのに、
人を裏切るあなたは。
自分が踏みにじることを終えるとき、
あなたは踏みにじられ、
裏切りをやめるとき、
あなたは裏切られる。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

「やられたらやりかえす」も必ずしも良いことではないけれど、「やられてもいないのにやる」人が世の中にはいて、その人たちは間違いなく良くない!と聖書は言っています。特に人を踏みにじることと人を裏切ることについて。

いじめについて考えると少しわかりやすいかもしれません。自分に危害を加えたわけでもない相手を、ただ「おもしろいから」とか「なんとなくムカつくから」というだけの理由でいじめる。これはつまり踏みにじると同義だと思います。そして、いじめに加担する人というのは、誰かをいじめることで自分の地位を保ち、自分がいじめられることを防いでいます。だからこそいじめ続けるんです。いじめをやめたら、次にいじめられるのは自分かもしれないから。政治やインターネットで人を攻撃し続ける人も同じかもしれません。人を攻撃し続けることで、自分が攻撃されるのを防いでいるんです。

「攻撃は最大の防御」とよく言われますけれど、これはもともと『孫子』の「勝つ可からずとは守るなり、勝つ可しとは攻むるなり」という言葉だと言われています。しかしこれは決して「攻撃は最大の防御」なんて言っていません。「守っているだけでは勝てない。勝つには攻めることが必要である」とか「勝てない状況なら守れ。勝てる状況なら攻めろ」とかいう意味です。勝てる状況でないのに「攻撃は最大の防御だー!だから攻めろー!」と攻めたら、攻め返されてあっさり負けます。孫子さんが言っているのは、しっかり守って勝てる状況をつくり、それができたら攻めましょうということですから、簡単に言えば「基本は防御!」ということです。

剣や武道の世界では「後の先」という概念があります。いわゆる先手は「先の先」と言いますが、相手の動きを見極めてから、あるいは相手の動きを誘ってから、つまり相手を先に動かしてから、それでいて結果はこちらが先に取る、というのを「後の先」と言います。そして「後の先」は「先の先」よりも難しいけれどもマスターすれば強いと言われています。つまりむやみに攻めれば「後の先」を取られて負けるんです。「攻撃は最大の防御」なんて言われてはいないのです。
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聖書に話を戻しますと、人を踏みにじればやがて自分が踏みにじられ、裏切ればやがて自分が裏切られるということです。人に踏みにじられたくなければまず自分が人を踏みにじらないことです。裏切られたくなければ裏切らないことです。いやいやそんなこと言ったって、イエスさまは自分で裏切らなくてもユダに裏切られたじゃないの?民衆に踏みにじられたじゃないの?なんて意見もあるかもしれません。確かにイエスさまは裏切られましたし踏みにじられました。しかし結果はどうなりましたか?イエスさまは復活し、ユダは非業の最後を迎えました。

一度人を踏みにじってしまったら、踏みにじり続けなければ自分が踏みにじられます。一度人を裏切ってしまったら、裏切り続けなければ自分が裏切られます。じゃぁ一度それをやってしまった以上、もうどうしようもないのか。踏みにじり続け、裏切り続ける人生を送るしかないのか。そうではありません。そのためにイエスさまのもたらした「ゆるし」があるんです。「ゆるし」とは「罪のリセット」です。人を踏みにじってしまったこと、人を裏切ってしまったこと、それを神様の前に心から告白して悔い改めるなら、その罪はリセットされて、正しく生き直すことができます。とはいえもちろん、「告白したらリセットされるなら、いくらでも罪を犯し放題だな!踏みにじって裏切って、ごめんなさいすればなかったことになるならこんなうまい話はない!ぐへへへへ」みたいな心の人は神様もゆるしはしないと思います。神様はちゃんと人の心まで見極める方ですからね。

自分が攻撃されないために、人を攻撃してしまっている人はいませんか。そしてそんな自分を心のどこかで嫌だと思っている人はいませんか。大丈夫です。もうそんなことはしなくていいんです。むしろ攻撃するから攻撃されてしまうんです。孫子が教えていることも実は実にシンプルです。攻撃されたくなかったら攻撃するのではなくまず守りを固めろと。攻撃は相手に「攻撃されたからやり返す」という大義名分を与えますが、守りを固めても相手に大義名分を与えることはありません。そして人間関係において「守りを固める」とはどういうことかと言えば、それは決して自分の殻にこもることではありません。不動のものに根ざした確固とした自分を持つことです。それはクリスチャンにとっては神の愛や聖書の知恵に根ざした自分を持つことです。それがあれば人を踏みにじる必要も、裏切る必要もなくなります。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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