「いつ会っても 明るい感じの人に/いつ会っても 和やかな感じの人に/いつ会っても さわやかな感じの人に/いつ会っても 安らかな感じの人に/いつ会っても 楽しい感じの人に/いつ会っても 清らかな感じの人に/いつ会っても 親しみ深い感じの人に/いつ会っても うれしい感じの人に」
岡山の玉島で長年牧師をし、瀬戸内海にあるハンセン病の療養所で伝道と支援に生涯を尽くした河野進さんの詩です。題は「あの人」。
「あの人」とは、誰のことなのでしょうか? 身近にいる親しい「あの人」のことでしょうか? ハンセン病の苦しみを負いつつ懸命に生きている療養所の「あの人」のことでしょうか? すでに天に召された懐かしい「あの人」を思い出しながら詠っているのでしょうか?
本紙今号の発行は11月1日。11月1日といえばカトリックや聖公会などでは「諸聖人(徒)の日」として、聖人や殉教者などを覚えて特別の礼拝やミサが行われます。プロテスタントの教会では11月の第一主日を「召天者記念礼拝」とする教会も多く、その日の礼拝には遺族、関係者も出席し信仰の先達者たちを偲び、その信仰に学ぶ機会としています。
しかしこの3年間はコロナ禍により亡くなった方々の葬儀さえままならず、「家族葬」として内々に執り行われ、故人との最後の別れの機会も失われてきました。
80歳を越えた昨今、友人や親しい知人の訃報の届くことが多くなりました。すぐに駆けつけたいところがその機会は許されず、「あの人」との別れの哀しみをひとり耐えるだけでした。
他方、ウソや欺瞞を臆面もなく政治の世界に持ち込み、戦前の国家体制の復興を謳い、旧統一協会とその友好団体を選挙運動に動員し、政界での一強を誇った「あ、の人」は国葬となり、多額の国費を使って飾り立てられた式場で「巧言令色」の賛辞を受け、自衛隊の儀仗兵を従えて逝きました。「あ、の人」の人生には「あの人」の姿の片りんも見ることはできませんでした。
「葬」という漢字は、野の花や雑草の間に死者を横たえるという字です。人生は儚く、人は死と共に等しく草木のもとに帰るのです。聖書も語ります。「すべて肉なる者は草、その栄はみな野の花のようだ。草は枯れ、花はしぼむ。……しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ書40章6~8節)
いずれは枯れ、しぼむ権力や地位にではなく、神の言葉に立つかどうかが「あの人」と「あ、の人」との間を分けるのです。
11月1日は天にある「あの人」を偲びつつ、再び逢える日を待つことにしましょう。
かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』『ふり返れば、そこにイエス』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。