天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
エフェソの信徒への手紙1章4節(参照箇所同書1:3〜10)
信仰は、洗礼を受けて信仰者となったときから始まったのではないことを、この言葉は教えるものです。キリスト者は天地が造られる前から神に愛されていたのだとパウロは言うのです。わたしたちは人生を送る中でいろいろなことを経験し、やっとキリストに出会い、信仰による慰めと平安を得たのではないでしょうか。自ら探し求めてキリストに辿り着いたかのようであります。
パウロは、人はキリストを探し求めた結果、そこから信仰者としての歩みが始まったとは言わないのです。人は信仰者として神の前に立つことができるように「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して」いてくださると言うのです。信仰者であるとは、永遠の昔から神に愛されていた結果であるとは、壮大な時の流れ、しかも永遠の神の愛の中に置かれている自分を発見することでもあるのです。
そのしるしを具体的に知るために、キリストとの出会いがあり、キリストの名による洗礼を受けたのです。「永遠の今」という言葉がありますが、まさしく永遠につながる今を生きているのがキリストを信じる信仰者なのです。