わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。
ホセア書6章6節(参考箇所同書6章1〜6節)
ホセアは前8世紀、北王国イスラエルの預言者。人々は形と口先だけの信仰を守っていました。「さあ、我々は神のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださった」(1節)。一見美しく見えるこの言葉も見てくれだけのだけの信仰でした.。神は、これを「朝の霧」(4節)と言われるのです。見てくれの信仰はすぐに消えるからです。
信仰を形にせよ、言葉にせよ、美しく表現することは、どの宗教にも共通しています。イスラエルの民たちもその点では同じでありました。彼らはモーセの律法に従い、贖(あがな)いのための神殿祭儀を定め、信仰の表現としました。信仰を形に表現することによって、信仰の満足が得られると思うからです。祭儀の形が事細かくなり、所作事が複雑になればなるほど、人の満足度は増していきます。同時に信仰を表現することが信仰そのものであるかのような錯覚に落ち入る危険も生じます。これは信仰を形に表現するときの落とし穴です。
神はこの落とし穴に人が落ち入らないようにと警告を発しておいでになるのです。神は見てくれの信仰より、見えない内側の信仰を喜びとされるのです。神はそれを愛と神への真実をもって喜びとされます。真の信仰の表現はそこから始ることをこの聖句は教えています。