彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなった灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。
イザヤ書42章2〜3節(参考箇所同書42章1〜9節)
バビロン捕囚の時代、人々は苦境からの解放を王のようなメシアに期待しました。しかしながら、期待したメシアは現れるはずもなく、代わって、彼らの中に生まれ出たのは苦しみを共にするメシアへの期待でした。何時果てるとも分からぬ苦しみの中にある者を自らの苦しみとして引受けるメシア、そのようなメシアがおいでになるので、出口のない、この苦境を生き抜くのであり、慰めを見出したのでした。苦しみを取り去るのでなく、苦しみを共にするお方を必要とするとは、彼らの苦悩が如何に深かったかを示すものです。
苦しみを共にするメシア、通常、苦難の僕と言われるメシアに示された姿は、当時の彼らの苦悩を共に負うばかりではありません。今日の社会においても、希望のない日々を生きることを余儀なくされた人々にとっての慰めであり、思いがけぬ災難に遭い、慰めをどこに求めてよいか分からぬ日々を送る人々にとっても、明日への希望をつなぐ力となり、慰めとなります。人が問いだけあって答えのないところを生き抜くためには、その問いを共有し、苦悩の日に傍にいてくれる存在を必要とするからです。そして、そのお方をわたしたちはキリストに見るのです。