主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書 ローマ人への手紙の6章です。それではよろしくどうぞ。
◆ローマ人への手紙 6章6〜7節
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷ではなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
「死んだ者は罪から解放されている」ってちょっと難しいですよね。どういうことだよ、って思います。だって僕はまだ死んだことがないですから。
たとえば懲役30年で収監されている人が、10年で死んでしまった場合、そこで懲役は終わりです。骨壷を残り20年刑務所に置いておくなんてことはしません。これは大抵、どこの国に行ってもそうだと思います。特に日本には「死者を鞭うたない」という文化がありますから、死んでしまえばその人の悪い部分は帳消し、というようなところがあります。悪人も死んでしまえば皆仏、のような精神的土壌があります。
パウロさんは、洗礼を受けてクリスチャンになるということは、これに近いことなのだと言っているように思います。洗礼を受ける時、僕たちは一度死ぬんです。一度死んで、新しい命を得て新たにスタートを切る、そんな意味が洗礼にはあります。本来は僕たち一人一人が十字架にはりつけられて死ななければいけないところ、イエス様が身代わりになってくださったので、洗礼を受けるだけで僕たちはこの再スタートを切ることができるようになりました。信じない人からみれば「そんな都合のいい話があるか!」ということになるかもしれませんが。
と、いうわけで僕はまだ死んだことはありませんが、すでに一度死んだことがあるんです。洗礼を受けたクリスチャンはみんな、一度死んだことがあるんです。人間は普通なら一度しか生まれませんが、クリスチャンは二度生まれたんです。
洗礼というのは単に「教会のメンバーになるための入会セレモニー」ではなく、こんな意味もある人生の一大事、というか人生をひっくり返す一大事でもあるんです。人生のフルリノベーションです。自分の人生、価値観、視点・・・あらゆるものを一度バラバラにしてゼロから組み直す、人生のオーバーホールです。パソコンで言えば初期化です。パッチをあてるだとかそんな小手先の対処ではなく、一度思い切って出荷状態にまで戻してしまえ、ということです。
人生こんなはずじゃなかった、苦しい、やり直せるものならやり直したい、でもできるわけがない。そんな風に思っている方、人生はフルリノベーションもオーバーホールも初期化もできるんです。だから早くやったほうがいい・・・とは言いませんが、いざとなればできるのだということは頭と心の片隅にでも覚えておいていただきたいと思います。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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