欧米諸国では、カトリック教会が「失敗」している兆候が数多く見られる。聖職者への召命は少なく、教会の出席率は低下し、若者は大量に教会を去っている。この衰退の背景に関する説は論者の数だけあるが、大きく二つに分けることができる。文化を非難する説と教会そのものを非難する説である。「レリジョン・ニュース・サービス」の記事から紹介する。
カトリックの指導者たちは、教会の問題を現代文化のせいにする傾向がある。消費主義、個人主義、世俗主義が、否定的な影響力についてのリストのトップを占める。メディアはキリスト教と相反するイメージやメッセージを人々に浴びせる。「幸福はセックスとお金と権力から得られる」。人生は仕事と余暇に忙しく、宗教のための時間を割くことができない。
宗教を支えてきた社会構造も弱体化している。
かつて宗教的なコミュニティや価値観を支えていた民族的なコミュニティは、住民が郊外に流出し、衰退していった。カトリックが主流に加わると、その根本が失われた。カトリックの学校に通う子どもも少なくなった。若いカトリック教徒が非カトリック教徒と付き合うようになり、異教徒間の結婚が増加した。教育水準が上がるにつれて、疑問を持たずに聖職者に従うことが少なくなった。
教会の失敗に関するこの文化的説明には多くの真実があるが、文化のせいにするのは天気のせいにするようなものだ。それが私たちの住む世界であり、それに対処することを学ぶのだ。カトリックのゲットーに引きこもるという選択肢はない。
衰退の責任が教会そのものにあるという説には、保守派の意見とリベラル派の意見がある。どちらも、性的虐待の危機に適切に対処しなかった指導者たちを非難している。リベラル派は説明責任と信徒の関与の欠如を強調し、保守派は同性愛者の司祭を非難する。
保守派はまた、第二バチカン公会議が命じた教会の変化を非難している。第二バチカン公会議以前は、教会は荒れ狂う世界の中で安定と確信をもたらす岩のような存在だった。しかし、変化が教会の信頼を損ねた。なぜなら、変化とは、教会が過去に間違っていたことを認めることだからだ。ある週は金曜日に肉を食べたから地獄に落ちる(カトリックには金曜日に肉を食べてはいけないという戒律がある)が、次の週は大丈夫だと。ある年にはミサは常にラテン語でと言われ、次の年には英語でと言われる。
保守派はまた、聖職者たちが、決定的な教えであるとする道徳的、教義的な事柄を公に議論することによって、人々を混乱させていると、神学者を非難する。彼らはまた、教会の社会正義のメッセージが、伝統的な教義から注意をそらすと信じている。エキュメニカルな宗教間対話は、すべての宗教に等しく意義があるという信念につながっていると主張する人々もいる。教会における信徒の役割を強調することで、司祭が台座から降ろされ、司祭職の魅力が薄れてしまった。
保守派は教皇フランシスコが間違った方向に進んでいると考え、ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世の政策に戻るよう祈っている。
一方、リベラル派は、その矛先を聖職者たちに向ける。第二バチカン公会議が教会に必要な改革の始まりに過ぎないとし、聖職者たち(特にヨハネ・パウロ2世)は教会の混乱を恐れて、それ以上の改革を封じ込めたと考える。公会議の文書は保守的なレンズを通して解釈され、神学者はバチカンの路線に従わない場合、反体制派のレッテルを貼られ、沈黙させられたのである。
アンドリュー・グリーリー牧師のような論者は、教皇パウロ6世が教会の人工避妊禁止令を再確認した時、聖職者団は信徒を失ったと信じた。この教え(人工避妊禁止令)は、道徳(倫理)神学者と信徒の両方から拒絶された。
また、離婚・再婚したカトリック信者の聖体拝領を拒否することは、夫婦やその子どもにとって問題であった。
リベラル派はまた、召命の危機についても聖職者団を非難している。なぜなら、彼らの主張によれば、司祭の結婚を認めれば司祭はいくらでもいるし、女性に聖職を認めれば司祭はもっと増えるからだ。さらに、中絶や同性愛者の権利に聖職者が反対していることが、多くの人々、特に若者を遠ざけていると主張する。また、民主党の特定の政治家への聖体拝領を拒否する司教によって、人々は疎外されている。
リベラル派に言わせると、聖職者団は19世紀にヨーロッパで上流階級と提携し労働者階級を疎外したのと同じ道を辿っているのだという。アメリカでは20世紀の大半、司教が労働組合や労働者階級に味方したため、反聖職者主義が存在しなかった。反聖職者主義が発展したのは、中絶や同性愛者の権利に反対する共和党と司教団が手を結んだ時たけだった。
私は社会科学者として、教会の衰退についてはリベラル派の説明を支持する証拠が優勢だと思っているが、保守派の主張にも良い点があると思いう。確かに、第二バチカン公会議以降の変化は、十分に説明されず、また実行もされなかった。聖職者も信徒と同じように混乱していた。また、リベラル派は、なぜ多くのカトリック教徒がリベラル派の教会よりも福音派の教会に入会しているのかを説明する必要がある。
しかし、これらの理論の問題点の一つは、それが、思想が人間を動かすと信じている神学者たちによって展開してきたことだ。思想は重要だが、それ以上に経験が重要にもなる。
多くの人々は、教会の教えに反対であっても教会に留まっている。しかし、告解や結婚式、葬儀での嫌な経験は、人々を永久に遠ざけてしまうことがある。神学上の意見の相違よりも、傲慢な司祭によって教会を追われる人の方が多い。教皇フランシスコが聖職者主義に非常に批判的なのはこのためだ。
そして実際、神学の相違のためというより、退屈さによって人々は教会を去っていく。人々が、日曜日のミサを欠席すると地獄に落ちるということを信じていない今、人々はその体験から利益を得られない限り、教会には来ようとはしない。
もし説教が退屈で、音楽が心を動かさず、歓迎されていないと感じたなら、その人は二度と戻って来ない。ミサは司祭がするもの、聖書は聖職者のもの、しかも共同体の感覚もないとしたら、どうして人が来るだろうか?
だから、多くのカトリック信者が福音主義教会に引き寄せられるのだ。思想も大切だが、カトリック信仰は信者生活に関わる生きた体験でなければならない。第二バチカン公会議以前の教会は、そのような体験を一般のディボーションで提供していた。第二バチカン公会議以後は、典礼がこのような体験を提供するはずだったが、そうでないことがあまりに多かった。
だから、今度、なぜ教会が失敗しているのかを議論する時には、神学者ではなく、社会学者、心理学者、芸術家、音楽家、そして教会を去った人たちを招待してほしい。
(翻訳協力=中山信之)