最近、ふと思ったのです。のび太って、学校では先生に叱られて、ジャイアンにはいじめられて、家に帰ってドラえもんに不平不満を言うわけです。そこでドラえもんはポケットから「奇跡的な」道具を出します。しかし、のび太にとってのドラえもんの真のありがたみは、「ドラえもんがなにか道具を出してくれる」ということ以上に「ドラえもんはのび太の愚痴を聞いてくれる」「家に帰ればドラえもんがいる」ということではないかと思うのです。
これは、ホームレス支援で知られる牧師の奥田知志さん(抱樸代表理事)が提唱してきた「問題解決型」と「伴走型」の応用です。ドラえもんが「奇跡的な道具を出してのび太の問題を解決する」というのが問題解決型だとすると、「家に帰ればドラえもんがいる」というのが伴走型です。奥田さんは、たくさんの困っている人を助けて来られました。テレビでご覧になったかたも多いと思います。「問題解決型支援」はとても大事です。食べ物がない人には食べ物を。住むところがない人にはアパートを。しかし、それだけでは本当の支援にはならないと奥田さんは言います。肝心なのは「伴走型支援」です。奥田さんの著書から、北野孝友さんという元ホームレスの故人のかたの言葉を紹介いたします。「ホームレスをしていたときは、食べるものも心配でしたが、人と話すことがほとんどないことがしんどかったのです」(奥田知志『いつか笑える日が来る』275ページ)。要するに、「話す人」「友だち」が大切なのです。
みんな「相手にしてほしい」のではないでしょうか。人が神様を求める気持ちも、おそらくそれではないかと思われます。「自分のこの苦しみはだれにもわかってもらえない」と多くの人が思っています。でも、神様だったら、どんなに複雑な事情があっても、自分のことをわかってくれるのではないだろうか。そう思うから、多くの人が神様やイエスさまや仏様に「より頼む」のではないでしょうか。宗教の存在する理由はこれであるような気がしてなりません。それで皆さん、教会なり神社なりお寺に行くのだ。神様か仏様に相手にしてほしいから。そして、そこに集う人間の皆さんにも相手にしてほしいから。
『×(ペケ)』という漫画に出てきた話です。記憶に頼って書きます。織り姫と彦星が言っているのです。私たちは年に一度、7月7日にしか会えないのに、その貴重な日に、なんでこんなにたくさんの人の願いをかなえなければならないのだ!と憤慨するというお話です。確かに、私たちは、七夕様には極めてあつかましい。短冊に願いごとを書きまくります。それから、サンタクロースにも極めてあつかましいです。子どもたちは、あれがほしい、これがほしいとサンタさんにお願いをします。サンタさんって、クリスマスイブの一晩で、世界中の子どもの家をまわりきれるのだろうかと心配にもなりますが、とにかく私たちはサンタさんにも極めてあつかましい。
「聖書を読む人」と「ドラえもんを読む人」というのは、本質的に変わらないような気もします。聖書を読んでは「目の見えない人が見えるようにしてもらえた、歩けない人が歩けるようにしてもらえた。いいなあ」と思い、ドラえもんを読んでは「ドラえもんは毎回、すごい道具を出す。いいなあ」と思うわけです。「『空を自由に飛びたいなあ』『はい、タケコプター!』」という歌があります。私が子どものころのドラえもんの歌です。みんなが期待しているのはまさにそれです。七夕様には願いをかなえてもらいたいし、サンタさんにはほしいものをプレゼントしてほしいし、ドラえもんには道具を出してほしいし、イエスさまには奇跡を起こしてほしいのです。
でも、本当はみんな「相手にしてほしい」のではないでしょうか。「恐れるな。私はあなたと共にいる」(旧約聖書イザヤ書43章5節)という言葉に励まされている人がどれほどたくさんいることでしょう。もちろん、ドラえもんが単にのび太の愚痴を聞くだけで、なんの道具も出さず、ただあぐらをかいてどら焼きを食べている人物だったら、漫画として成立しないでしょう。聖書だって、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(新約聖書ルカによる福音書11章9節)と書いてあるから聖書なのであって、「求めなさい、そうすれば与えられるかもしれないし与えられないかもしれないし、わからない」と書いてあったらそれは聖書として成立しなくなるだろうと思います。神社に行ってお札を買うのも当然の行動だと思います。みなさん必死なのです。でも、のび太にとって、じつはドラえもんというのは「家にいてくれるだけでありがたい」存在であるのと同様に、神様というのは「天にいてくれるだけでありがたい」存在なのだと思います。