「国家権力vs民衆」という構図はあまりに単純すぎませんか【聖書からよもやま話190】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日で189回目です。つまり残りちょうど1000回です。まだまだ先は長いですが、完走できるその日までこのクリプレと僕の心が守られますようにどうぞお祈りください。

さて今日は 旧約聖書、 詩篇の9篇です。それではよろしくどうぞ。

◆詩篇 9篇19節

主よ立ち上がり
人間が勝ち誇らないようにしてください。
国々が御前でさばかれるようにしてください。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

民主主義の国に生きていますと、ついつい「民衆は善、国家権力は悪」のような端的なイメージを持ってしまいがちです。もちろん民主主義ですから国家権力が民衆のためにあるのであって、民衆が国家権力のためにあるというような本末転倒を起こしてしまってはいけないのですが、とはいえしかし民衆が国家に対して必ずしも善であるとは限りません。聖書のこの箇所に記してある通り、国々も神様の前で裁かれるべきものでありますが、同時に人間も神様の前で勝ち誇ってはいけない存在です。ここでは人間と国々が並列に主の前に置かれています。「国家権力vs民衆」という構図だけでは、人間と国家の関係を語るのにはあまりに単純すぎるということです。

国家のよくないところを指摘し、時に弾劾することも大切です。しかしその一方で民衆の側も、自らによくないところはないか、自ら指摘して修正することが必要です。そうでなくては民主主義は成立しません。だって民主主義国家というのは民衆の集合体なのですから。国家を構成する民衆自体が誤っていたら、当然国家も誤ります。

よしそれなら民衆の中に悪いやつ、間違ったやつがいないかしっかり相互チェックしなければ!なんて思う人もいらっしゃるかもしれません。しかしそれは相互チェックといえば聞こえはいいですが、言い換えれば相互監視社会です。今の日本はどうも少し相互監視社会に近づいてしまっているように思えます。本当に世の中を良くするために必要なのは、相互監視ではなく、自己監視です。他の人が悪いことをしていないかどうかチェックするのではなく、それよりもまず自分が悪いことをしていないかにフォーカスして自己吟味する。それを一人一人が行えば、世の中はずいぶんみんなにとって生きやすくなるのではないかと思います。

時には国家権力を監視し、弾劾することも必要です。
時には他の人の過ちを指摘し、修正することも必要です。
でもそれより何よりまず必要なのは自分自信を過ちから守り、律することです。

・・・それが何より難しいのですけれどね。でも人を責める前に自分を正そうと、少なくとも心がけてはみようと常々思っています。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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