自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
ルカ14章27節(参考箇所同書14章25〜27節)
しばしば、生きることが辛くなります。「頼みもしないのに生みやがって」、「こうなったのは世間のせいだ」、「学校のせいだ。会社のせいだ」と当り散らしたところで自分がみじめになるだけです。
イエスは、自分の十字架を背負いなさいと言われます。自分の人生は自分の責任であるとわきまえなさいということでもあります。しかしイエスは、一人で歩きなさいとは言われません。わたしについて来なさいと言われるのです。そして背負っている重荷を重荷といわずに十字架と言われます。それはゴルゴタの丘への道を歩いたキレネ人シモンを思い出させます。背負っているのは、わたしの重荷から主の十字架に代わっているということです。同じ重荷でありながら、意味が変わっているのです。わたしに代わって死んでくださるためのお方の十字架を背負っているということです。そのお方が死んでくださるので、わたしが生きることができる、そのためにその方の後に従っている自分がいるということです。さらに、深く考えれば重荷を負いながらも、その方に従って歩いているわたしがいるということです。