お葬式が終わると、神妙な面持ちで喪主が会葬者に御礼のあいさつを述べる。「お忙しい中、ご参列ありがとうございました」と。続いて、僧侶に対してもねぎらいをいただく。「ご住職の読経によって故人は間違いなく天国に旅立っていきました」と。この時、私はポーカーフェイスを装うが、内心では拍子抜けして、「天国かよ!」「そこは神のまします国じゃねぇか!」とツッコミを入れてズッコケたい気分になっている。
しかし、コントの一幕のようにお坊さんがズッコケたら、作り上げてきたお葬式がすべて台無しである。「天国ではなく極楽への往生を願って読経したのに……」というモヤモヤした気持ちをグッと胸にしまい込み、喪主がこちらに頭を下げるのに合わせて頭を垂れる。
喪主に悪気がないことは分かっているけれど、これが繰り返されると、ボディにジャブを打ち続けられるような感じで、メンタルが削られていく。たまには弁明のカウンターパンチを繰り出してうっぷんを晴らしたくて、このコラムを書いている。
おそらく喪主は、テレビで報道される芸能人のお葬式などで耳なじみのある「天国」を、無意識に用いているにすぎない。だから、「天国」と口走ったとしても、キリスト教で説かれる神の国を想像しているわけではないはずだ。
むしろ心情として近しいのは、少し前に大ヒットした「千の風になって」の世界観ではないか。すなわち、「私のお墓の前で泣かないでください」「千の風になってあの大きな空を吹きわたっています」という、すべては命を終えれば「天」へと返っていくという素朴な宗教観が、「天国」という言葉を使わせているのだろう。そう考えると、敬虔なキリスト教徒に対しても冒涜的な表現にちがいない。
とはいえ、いくら弁明を重ねたところで、お寺の檀家さんがこぞって「天国」へと旅立とうとしている現実には、やはり忸怩たる思いがある。私たち僧侶としては、「極楽」が正しく使われるようになってほしい。
これまでに2度、お寺の本堂に居合わせた人から「極楽」という言葉が漏れた、印象的なシーンを経験した。一つは、福間創さんというアーティストのライブイベントである。本堂にスモークをガンガンに焚き、赤や青のレーザーの光がおごそかに輝きを放つなかで、シンセサイザーの音が響く。私の読経とのセッションもあった。終演後、参加者はSNSに「極楽浄土を見てきた」と書き込んでくれた。
もう1回は、ドローンに載った仏さま「ドローン仏」が宙に舞い、極楽浄土から臨終にお迎えが来るシーンをテクノロジーの力によって表現した時である。ドローン仏はドローンについたプロペラで飛行するので、参列者に近づくと風がただよってくる。この時には「極楽の風が来た」と感嘆の声が上がった。
自然と発せられた「極楽」だったからこそ、私は嬉しかった。経典に描かれる極楽には、レーザーの光もドローンのプロペラからの風も存在しないから、形容として正しいのかわからない。それでも、この世ならぬ情景を本堂で目の当たりにすると、「極楽」と積極的に言ってしまいたくなる心情が私たちのどこかに眠っている。
したがって、宗教者の仕事は、仏教の「極楽」やあるいはキリスト教の「天国」を、聖典の言葉通りに信じさせることではない。私たち自身の心の中に眠れる「極楽」や「天国」への思慕を、目覚めさせていくことだと思う。このコラムもそのための一助となることを願う。
池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽